『レスラー』


『レスラー』 監督:ダーレン・アロノフスキー 出演:ミッキー・ローク

主人公(ランディ)の背中のすぐ後ろにいたから分かるけど、リング以外でのレスラーとしての彼に好意を持っている人たちの笑顔というのは、彼を強張らせて選択を鈍らせているのではないか。もっと言えば、窮屈で孤独な場所に追い込んでるのではないか。そのじりじりと退路を断たせるかのような視線をカメラは彼の背中からすかさず捉えていくわけだけど、背中を追う我々にとってそれは凍えそうなほどに険しく悲しい時間である。だけどもそれ以上に感じてしまうのは、近づけば体温を理解するように、やはり彼自身の姿なのだ。それほどまでに彼の背中は、(リングで技を受け続けるように)生きにくさを顕在させる「受身」としてのたくましさを、あるいは惨めさを持ちえている。俺や、たぶんみんなもだけど、毎日小さい小さい小さい闘いをくりかえしてて、それを彼の場合に見たときに、オマエなんて不利な状況で戦ってんだよって、くずれそうになったよ。

それにしてもスーパーの裏口を通って売り場に出ようとするランディを、カメラはリング入場の直前かのように舞台裏の彼に重ね合わせ、本人も試合前のように気合を入れるっつー、別の映画でみたらおそらく白けてしまうんじゃないかというほどのベタさに、ひどく真面目に響いてしまったのはどうしてだろう。おそらくそれは我々に未来を暴くことが許されないからだ。我々がこの映画で発見したことは、ランディの目にする世界にとって、現前するささやかな変化ひとつひとつは、こんなにも鮮烈である、あるいは時として受け止めがたいほどにショッキングな出来事として映るということである。そう彼の背中を追うカメラによって我々はそれを否応無く体感させられたのだ。何であれ未来と直面することの痛みに対して我々はそれを軽減させる能力を持っている(いやむしろ未来を意識できるからこそ伴う痛みかもしれない)。その能力の低さが彼の不器用さ、ダメさの一面かもしれないとしても、目の前の苛烈な光景にその先を意識する余裕はあるのだろうか。背中を追う我らにはもちろん未来は暴けない。予定調和は知らされないのである。

まるで「余生」という呼吸の仕方を知らないかのように、ゆるやかに死を待つことが何よりも耐え難いがゆえに彼は再びリングに上がったのかもしれない。彼は自業自得のダメ人間だろうか。あなたがたがよく言う共感できない人間だろうか。でもいつか何かのキッカケでこの映画を思い出すかもしれない。その光景はきっと彼の背中の姿ではないだろうか。

死についてメモ

  • 例えば銃弾に倒れ、血を流して地面に好きなだけ吸わせながら空を眺めている。(最後の一服も許してあげよう)。「もう俺は死ぬだろう」そのことをなんとなく確信するかもしれない。だが、投げたボールが着地点に到達する前に、視線がはっきりとボールの運命を見定めるのと同じようには、死にゆく者は自身の「死」を見ることは不可能である。その軌道が確実に「死」に近づいているとしても、おそらくは「死」の決定そのものを永遠に知ることはできないだろう。「死」の体験はないが、着地点の直前に意識が「飛ぶ」のか、あるいは着地が見えたとしてもそれが「死」であると知る術はないのだ。(あのミギーでさえ圧倒的な孤独感に「死」の予感をみたが、結局死ななかったのだし)。
  • 少年マンガにおいて、死んだ者がしばしば復活することに何の疑問も挟まれない。そんな背景があってか荒木飛呂彦は「こいつは完全に死んだから、後で生き返ったとか実は生きてたとかは絶対にありえないよー」ってことをわざわざ伝えるために魂を雲(?)状にして飛ばしたと聞いたことがある。

それと関係するのかはわからないが、映画における「死」の描写に、そこに紛う事無く「死」が在ったと感じれたことは無い気がする。俺は殺人を見ている、死体も見ている、だが間の「死」が見えないのだ。脳ミソを撒き散らされるような「即死」は、はたして「殺し」と「死」が同時にやって来ることだろうか。目を閉じカクッとなればそれは「死」の訪れだろうか。もちろん医学的な死の決定点はどこかという話ではなく、言うなればミギーの感じた「死」の予感がどこで着地するのかということを、俺たちはスクリーンに殺人を目撃したとしても、あるいは死にゆく者をまじまじと観察したとしても、決して見ることはできないのではないかということ。「殺し」は在る、「死んでる」も在る、だが「死んだ」その瞬間は無い。それは常に画面から隠れてて、何も告げぬまま「死んでる」に移行している。この前観た『バーン・アフター・リーディング』が気持ちいいくらい詰まんなかったけど、唯一ハッとした場面があって、ある一室でブラッド・ピットが眉間を撃たれて死んじゃうってとこ。撃ったジョージ・クルーニーが慌てて部屋から出るけど、呼吸を整えてから再度部屋に入るのだ。おそらくは確認の為に。一度目の室内では「殺し」の実行が銃声と眉間の穴と飛び散る血によってはっきりとカメラに目撃される。二度目の室内では動かないブラッド・ピットが、他の何でもなくただ「死体」として現前する。そう、まるで「死」の瞬間は見えないということを象徴させるかのようなシーンである。

『ウォッチメン』

ウォッチメン』 監督:ザック・スナイダー 原作:アラン・ムーア


何年も昔に撮ったカラー写真が(あるいは誰が撮ったかもわからない写真でもいい)、未だ色褪せてなくて鮮明なままだとして、よせばいいのに俺はそいつを気まぐれに視界に入れてしまう。ときとして、そいつは腹立たしい。中に写る誰かではなくて、写真っていうそいつがだ。風化しないそいつがまるで身の程を知らない愚か者にみえて、変わらないっつーその抗いがまったくもって惨めったらしく思えてくる。それは、その写真自身が、とっくに忘れちまってるはずなのに「思い出」ってツラで平然とありつづけるから。

『ウォッチマン』にあるのは、忘れたまま生きることが映画という時間の中で可能であったことだ。忘却したことすらわからないのであれば、それは忘却ではなく最初から何にも無かったことと同じである。忘却には、その記憶が確かに在ったという隣接する記憶あるいは痕跡(外部の記憶)が必要になる。すなわち「忘却の証明」だ。あらゆる記録は、例えば写真/日記/映画は、言うなれば「忘れないとする意志」である。ではその逆、忘れたことの証明として、記録は存在しえるのだろうか。オープニングにおけるミニッツメン誕生から終焉が、まるで「時代」に型押しされ、血の通ったデスマスクとして「歴史」を記録してるかのように、全てを忘れて物悲しく微笑んでいる。輪郭ははっきりと、微笑みは静止したまま。ロールシャッハが叫び、コメディアンが疲弊し、マンハッタンが沈黙する。だが彼らの針は止まったまま。『ウォッチマン』という映画はつまり、「思い出」ってツラをした忘却なんじゃねーのか。

終わることが始まり、彼らがたそがれを歩くとき、終わらせたくなかったものが何であるか思い出せはしない。終わることを失い、ウソが始まるとき、彼らは何を失ったのか思い出せはしない。

『イントゥ・ザ・ワイルド』

イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]

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イントゥ・ザ・ワイルド』 監督:ショーン・ペン 出演:エミール・ハーシュ

あらすじ

1990年夏、アトランタの大学を優秀な成績で卒業した22歳のクリスは、将来へ期待を寄せる家族も貯金も投げ打って、中古のダットサンで旅に出る。やがてその愛車さえも乗り捨て、アリゾナからカリフォルニア、サウスダコタへとたった一人で移動を続け、忘れ難い出会いと別れを繰り返して行く。文明に毒されることなく自由に生きようと決意した彼が最終的に目指したのは遙か北のアラスカの荒野だった。

主人公は彼が求める本来の意味でのイントゥザワイルドを果たせたのだろうか。と、身も蓋もない言い掛りを冒頭に言います。なぜなら、彼は最後まで客人だったんではないか、という思いが離れないから。あの不思議バスは言わばゲストルームで、人は自然と切り離された存在のままっつう。客人に目一杯好き勝手させ、最後の最後で罠にはめるっていうモチーフが童話で良くあると思うのだけど、この映画はなんかそれに似ている。郷には従うが異人は異人のままで、無作法を止められないままに垂れ流すだけ。例えば、衣食住を得るという根源的な生活描写よりも、暇過ぎるゆえの一人遊びのほうが若干時間配分多い気がする。しかも、暇つぶしの内容が人間社会でやってたそれっていうのは何か悲しい。本末転倒ってのは言いすぎだろうけど。

と、ここまでは単なるたわごとで。以下に、彼の旅について思う。

彼はときおり一人芝居や独白をみせる。それは内側から吐き出すかのように、また場所を問わず、(劇中に何度も)繰り返される。その理由は、ひとつに孤独に耐えるためだろう。だがもうひとつは、過去よりせり出してくる痛みゆえではないか。彼の旅はまるで、彼の中の家族を過去に閉じ込めてリュックに背負っているようだ。当然いつまでも肩にのしかかるし、外装に守られ決して風化しない。固く縛って持ち出した過去は決して変化し得ないということ。だが、それが彼の突き動かしていたものだったというのは言うまでも無く(もちろんすべてではないが)。すなわち「どこへいっても」彼は同じものに支配され続けるということを、彼が自分を客人であると思い知れないことが最も「客人であること」を証明するように、彼自身で無自覚に示してしまう。
彼の一人芝居や独白は、カメラに向けて行われる。あるいは彼とカメラの間の区画された狭い空間に向けて。それは「ただ」そこまでしか拡がらないだけなのか。旅そのものが彼の中の家族を過去に閉じ込めておく行為ならば、その一人芝居や独白は、外に対象を持つはずは無く、漏れ出ただけのそれは拡がる術を持つはずが無い。
一方でカメラが白光を中心に、窮屈を知らないままフレームを忘れて青空を映し出すとき、それは対比としてカメラが主人公を中心に捉えたときの狭々しさを想起させ(つまり一人芝居や独白ときだ)、まるで真逆の開放感を得る。俺の記憶に在るのは、老人と岩場のてっぺんで会話するときの青空と、死に際に見上げる青空だ。そのとき、独白の対象ははじめて外に向けられる。主人公と老人には対話があった。主人公を置いて老人は先に、閉じ込めていた過去を未来に差し出す。やがて彼も。死に際のモノローグは、過去に置いてきた人たちの未来を想像する。
「僕が帰ったら両親はどんな顔するんだろう。」
「僕が出会ったすべての人のその後の人生はどうなっているだろう。」
そのモノローグはもはや閉じ込めた過去についてではない。「過去」は「現在」から切り離されたから「過去」ではなく、「過去」が見つめる視線をすなわち「未来」と呼ぶのだ。映し出された青空は、それだけの映像であれば何ら変哲もないが、主人公と老人の対話に主人公の変化を予感させてくれる。彼の死が「摂理として精悍さ」と「弱者としての惨めさ」を備え、それがまさしく自然の地の(おそらく本来である)重苦しさとしてしめられるはずが、最後に青春映画のようにさらりと吹き抜けていくのは、「どこへいっても」見ることのできる単なる青空の映像が、彼の変化を、彼の視線を、スクリーンに刻み込むからに他ならない。

Happiness only real when shared.(幸せは分かち合った時にだけ現実となる)

『少年メリケンサック』


少年メリケンサック』 監督:宮藤官九郎 出演:宮崎あおい 佐藤浩市


「○○だよ、○○!」でばしっと通じちゃうような言葉はウサンクセーと思ってて、たとえば「ハートだよ、ハート!」とか「ソウルだよ、ソウル!」とか。で、もちろん『少年メリケンサック』についてもそりゃパンクがテーマなわけだから「パンクだよ、パンク!」があるんだけど、それについて決して露骨ではない懐疑を腹に隠し持ってる気がして、そこはちょっと好感持てたなあ。逆にこの映画を叩いてる人の「パンクだよ、パンク!」が疑うことを知らな過ぎててクドカンよりも胡散臭く感じてしまったような。スピリチュアルな何たらを聞かされてるのと同種の気持ち悪さと言ったら怒られるだろうか。もちろん俺がパンクに馴染みないことが一番の理由かもしれんけど。
映画自体もそこそこ好きで、特に「おっさん、ちゃんと生きれんじゃん」ていう複雑で(体臭に埋もれてしまうような)悲哀をぐっと内に飲み込んだ結末というか終盤はちょっとぐったきたなあ。おそらく彼らには「パンク」っちゅーもんがあって、俺には推測しかできないけれど、推測する限りでは、彼らは「パンク」以外に生きられないことを証明したくて、すなわち彼らの人生の無駄さが「運命としての無価値」であったと信じたくて、だからこそ彼らは「パンク」に殺されなければならなかったのだけど、結局ちゃんと生きれんじゃんという。そこで彼らの「パンク」がふぁさーと手元から霧散していく、しかもそこに気付かないように「残酷にも」充実が覆っているっていう、さよならも言えない幻想の消失をうまく映画にパックできてたんじゃないかな。面白かった。
余談だけど、構造が『リトル・ミス・サンシャイン』と似てて、でも映画としての出来はあきらかに『リトル・ミス・サンシャイン』がいいのな。あの道中もうちょっと面白く撮れんかったものか。

トムしゃん


トム・クルーズに誠実な言葉を与えてはいけない。だって彼孤独だから。

トム・クルーズって、もはやアイドルじゃないし(トム・クルーズの映画っていうのは通じない)*1、かといっていわゆる演技派俳優なのかといえば、そうかもしれないけどやっぱりトム・クルーズであることを引きずり過ぎているし、それならばニコラス・ケイジやウィル・スミスなどのハリウッド・スターのように出演作にその人のアクがどうしたって出てしまう、(彼が彼であることに作品が上塗りできない)って存在なのかっつたらそーでもないっていう。さらに言えば、トム・クルーズは『トゥモロー・ワールド』のクライヴ・オーウェン黒沢清映画における役所広司にも決してなれないのである。彼は作品世界に従属的であるが、トム・クルーズとして作品のどこにも居場所がないような孤独も我々は見てしまうのだ。なのにどうだろう、いやだからこそなのか、映画を貫いてその先の我々の世界をえぐり、大きな爪痕を残すような言葉は、トム・クルーズにしか持ち得ない気がする。『マグノリア』や『トロピック・サンダー』でのトム・クルーズの言葉の誠実さというのは、作品世界あるいはその中の登場人物に対してではなく、映画が受け止めきれないために我々が被弾してしまうような、作品に収まりきれない射程距離と貫通力を持つ。*2 もし「映画」という存在そのものをフェイクであるとするならば、映画内での誠実さとはつまり、我々への不誠実さということになる。それを時として飛び越えてしまうのがトム・クルーズという存在なのではないか。*3 もちろん全ての作品というわけではない。だがトム・クルーズに誠実な言葉を与えてはいけないのだ。その時我々はもう安全地帯には居れないのだから。チェンソーの殺人鬼のようにスクリーンを突き破って彼は言葉と我々を対峙させる。いやもしかしたら「言葉」すらも必要ないのかもしれない。『宇宙戦争』での逃走は、いわば父親への過程であったのだが、旅の終わりはすなわち父親としての終わりでもある(娘を引き渡す)。ラストシーンで佇むトム・クルーズというのは、作品内の悲劇性を越えて、目指す先にある逃れられない「終わり」を、トム・クルーズという存在そのものを媒体として、我々と対峙させるのである。それは宇宙人のどんな殺戮よりも暴力的であった。

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宇宙戦争 [DVD]

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トムしゃんの『ワルキューレ』、あの眼帯でいつものクド過ぎるほどの爽やか笑顔を見せられたらなんか怖えーよな!

*1:そんなもんがあったのかは知らないけど。パブリック・イメージ。

*2:『トロピック・サンダー』のあれはギャップを活かしたものだけではないインパクトがあったはずだろう?関係ないけど、エンドロールでのダンスは別にいらんかったなあ。

*3:ここで更に、トム・クルーズとニコラス・ケイジやウィル・スミスとの違いについて補足しなければならないだろう。前述したようにトム・クルーズは作品世界に従属的であって彼らはそうじゃない。つまり彼らは前提から映画内で不誠実であるのだ。だから飛び越えるも何もない、最初から逸脱している。そしてだからといって映画以上に我々に近いといったらそうでもないのだ。

『ゴーン・ベイビー・ゴーン』

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ゴーン・ベイビー・ゴーン』 監督:ベン・アフレック 出演:エド・ハリス


悪意によって、個人が及ばない過去によって、あるいは偶然によって、それは様々にあるが、それらが重なり蓄積され、自らの内につくるものは「ただひとつの」世界である。(平凡な俺が)これまで触れてきたささやかな不幸の数々をもとに想像力がたぐり寄せてしまう世界の有り様は、俺に絶望の風景を見せる。『ゴーン・ベイビー・ゴーン』もまた、俺の中のスイッチを押すのだ。あるいは映画の中に絶望はなく、もし映画が絶望を呼ぶのであれば、それを引き寄せるのはいつだって自分の見てきた風景を顧みてしまう行為にある。冒頭〜終盤までのイケイケなサスペンスがウソのように、この映画は静かに息を引き取る。ゆっくりと静かに引き伸ばされて見えない未来に追いやられたものこそが、俺をいつまでもざわつかせる。疼いたまんま眠る過去のように、道は続くよ。