『アイアンマン』

『アイアンマン』 監督:ジョン・ファヴロー

なぜアイアンマンはあんなにもシンプルにヒーローでいられるんだろうか。『アイアンマン』の主人公トニー・スタークは、いわば最新型のび太であった。なぜなら部屋から行ける場所だけが彼の世界だからだ。彼は、部屋の中の世界から繋がる「外」しか関知しない。いや、自分のつくった世界は「そこまで」しかないのだ。「関わり」はその先の世界を彼に無断で勝手に拡げたりはしない。例えば彼を救って命を落とした医師についてその後一切触れないし、「自社兵器が悪用されるから」「部下がいらんことするから」彼は英雄的行動を取ったに過ぎない。彼の行動は実にシンプルである。つまり、「自分がつくった世界だから、自分で直す」のだ。
トニー・スタークが見ていないもの、彼が信じていないものは、映画の中にひとつも置いてはいない。だからこそ『アイアンマン』は近年稀にみるほどにあっけらかんとヒーローであることを背負えていたし、その軽快さは、スタークの意志とは一切関係なく、頑丈で強固な思想性を持ちえたのだ。

『パブリック・エネミーズ』

パブリック・エネミーズ』 監督:マイケル・マン 出演:ジョニー・デップクリスチャン・ベイルマリオン・コティヤール

  • 今現在見渡せる限りのすべてが、あるいは現位置から触れることのできるすべてが、まったくもって「腑に落ちる」動きであったとき、まるで時が止まったかのように、すべてが静止していると感じてしまうのではないか。当然それを体験できる人間などはいないが。ではその静寂は、人に平静で穏やかな気持ちを与えてくれるのだろうか。いやそれはきっと安定など与えてくれはしない。ざわざわと世界は呼吸を失う。
  • すべての映画はこれを起点に始まる。適度なストレスが快を与えるように、意図を持ってわずかにすべてはズラされる。
  • (それとはおそらく関係なく)
  • 画面の隅まで意識の及ばないマンの盲目は、すなわち映画への信頼でもある。
  • ビーフェイス・ネルソンの末路とかやばい。

『母なる証明』

母なる証明』 監督:ポン・ジュノ 出演:ウォンビン

(ネタバレ)

お互いは関係し続ける、干渉し続けなければならないというのは、その自発性を意識しないまま根拠無く信じられている。母の「母子の絆」という牢獄は、その不自由で幸福な区画された壁の中は、「喪失」でしかそれを否定できない。だが「喪失」あるいは「崩壊」でしかないということは、存在したということを証明してしまう。手元には無いがどこかには絶対のものとして在るのだと、思い上がらせてしまう。
この映画が見せるのは、それはまったくの思い違いであるということだ。いや、思い違いであるという場所に連れていかせられるのだ。ぽんと背中を押され、よろめく母は壁にぶち当たらない。何の障害もなく、何の感触もなく、ふと広い場所に出てしまう。壁であったはずの境界を踏み越えて。緯度も経度も善も悪も生も死も有も無も、すべてがなだらかに引き潰されたかのように起伏なくゆるやかに伸びていく大地で、すがり付くものも見当たらず取り残されたように所在無く立たされる。母が見ている風景とは何か。たとえば「ゴルフボールより血痕」という言葉は、警察の無能さを強調する以上に、周囲の彼らは母子にある真実を絶対にわかりはしないだろうという絶望以上に、真相や真実といったものが(あるいは本質と呼ばれるものが)その他のすべてと優劣なく横たわっている・同列に埋もれてしまっていることの訪れを(終盤でもはやダメ押し気味に)告げているのである。
一方で息子は、なぜ「母子」という窮屈な部屋に依存し続けるのだろうか。単に自活ができないからだけでなく、彼にはその場所から離れる必要をまったく感じていないのかもしれない。母に依存し続けること、母から自由になることに大きな違いはない。すべてが起伏なく続いているのに、自由に動き回ることと、ここでじっと世界を見渡していることと、どんな違いがあるのだろうか。
プロット的に息子のウォンビンが『羊たちの沈黙』のレクターで、母親がクラリスに思えてしまったのだが、これは単なる思い付き以上に重要なことかもしれない。クラリスが見た世界とレクターが見た世界を、いま俺が映画を通して見ることができるのであれば、それは『羊たちの沈黙』では無く『母なる証明』なのだという気がする。それは時代が変わったからでもなく、あのときから何かを失ってしまったからでもなく、たとえ何ら変質しなくともありえるのだろう。世界それ自体が貶められているのだ。かつて在ったものは、ここにも変わりなく在る。だがそれは、クラリスのときのように彼女にとっての起伏たり得ないし、障害としての感触たり得ないのである。レクターがレクターであることの区別を世界は許しはしないだろう。すべては「ゴルフボールより血痕」ほどの差異でしかない。国籍も人種も差別も格差も貧困も犯罪も殺人も時代すらも、凄惨であることも幸福であることも、世界を区画しない。それらは色彩を隔てない。母体はすでに貶められている。関係を知るということの高低を方位を位置を距離を区別することができない。世界を踏みしめ奮い立つ何かはないし、すべてはなだらかに轢き殺されている。
偽りの記憶で生きることと本当の記憶で生きることの違いを彼(息子)の中に見出すことはできない。彼にとってそれは大差の無いことであるし、何が真相か知っている我々もその切り替わりが曖昧に続いていく彼の見る世界を知ることはできないのである。断絶の中に立ち止まり続けなければならない彼の見る世界を。だけども、俺の足もとから始まって映画を通過して接続できる世界というのは、それに近い風景なのかも知れない。俺が見た世界とお前が見た世界が、交差点で通行人と肩がこすれる程度の刹那で重なるとき、その瞬間の火花こそが唯一認識できる母体としての世界ではないか。そう、誰かの見た世界と誰かの見た世界と誰かの見た世界のうつろな綱渡りこそが、いまかろうじて連続性を保てる唯一「映画である」ことの手段ではないのか。

『G.I.ジョー』

G.I.ジョー』 監督:スティーヴン・ソマーズ


なあ、ブルース・ウィルス主演の超面白い映画といえば『ダイ・ハード』である。けれども、『ダイ・ハード』のアクションは当時にしてもはや純粋にハラハラさせられるものではなく、ナカトミビルは主人公が出くわすたまたまの事件現場ではなくアクションが「演じられる」舞台でしかない(敵がお前はランボーかと主人公を皮肉る場面もある)。それを何よりも象徴していたのが、主人公がナカトミビルにリムジンで招かれリムジンで去っていくという、この映画の始まりと終わりである。

同じように『G.I.ジョー』では、仮面で始まり仮面で終わる。冒頭のエピソードから仮面の大統領へ。ある者の憎しみは仮面によって塞がれ、やがて仮面によって憎しみの出口を得る。 その中間、つまり映画本体は、その憎しみが蓄積し、侵食し、潜行する過程にすぎないのではないか。言い換えれば、沈下して映画から隠れているもの以外は、「演じている」ほどの切迫しか持ちえず、あるいは「偽り」と遜色のないぐらいに私達との距離を保っているということ。主人公やかつての恋人やニンジャ達、彼らの私怨や葛藤は「まっとうに」映画にはうつらない。主人公の元恋人のようにマッドサイエンティストにただ操られていたというオチだけでなく、正しくも玩具的なそれとして彼らはうつるのだ。

しかし、だからこそ彼らのアクションはとても魅力的なのである。加速スーツを装着した主人公達の走りも素晴らしく捨てがたいが、何よりも敵側、主人公の元恋人バロネスとイ・ビョンホンのタッグチームである。そもそもこいつらはどこかおかしい。相手の本拠地から兵器を盗み出す計画なんだけど、任務を100%確実に遂行できるほど相手チームとの戦力差はかけ離れてはいないのは自覚してるだろうに、若干の部下を従えるだけで単身乗り込んじゃうし、脱出について何も考えてなかったのかと疑うほどの直線運動っぷりだし(潜入方法以外はノープランっていう)、あきらかに「捨て身」過ぎるだろう。他でも「現場の刑事は足を使え」みたいにせわしなく組織のために働く2人は微笑ましく、憎めるはずもなく素敵と思えてしまう。パリ街中の追いかけっこでも、悲壮を纏うのはどっちだろうか。当然に追われる側のバロネス&イ・ビョンホンである。小ばえをはらう程度の苦労といった顔で余裕そうにみせてるのだけど、すっげー追い詰められてるし。ギリギリだし。

そうなのだ、バロネス&イ・ビョンホンに惹かれるのはその「捨て身さ」なのだ。


ダイ・ハード』でのブルース・ウィルスが、「演者」ゆえに、アクションヒーローとして傷つけば傷つくほど、決して降りられないステージとしての「宿命」を色濃くさせたように、演じられた世界の中で、偽りの動機のもとで、バロネス達の「捨て身さ」は、この世界を泳ぎ切るための必死の「アクション」としてそれ自体を輝かせる。
バロネス&イ・ビョンホンエッフェル塔に兵器を撃ち込むためビルをかけ上がるのだけど、イ・ビョンホンは屋上近くのある階に、バロネスは屋上へと別れる。イ・ビョンホンから撃たれた兵器の軌道は、屋上からの別視点でバロネス越しに捉えられる。「達成」の地点で、それぞれの視線が交わることの美しさに、「達成」の意味は必要ないのだ。


それにしても、「鉄の仮面を被せて憎しみを閉じ込めた私達の罪は巡り巡って、ふたたび仮面の者によって(または仮面によって)つき返される」というのは面白い。物語的なテーマも含めるのならば、「自分が好まない者を消し去ることはできない。視界に入れないだけでいずれはおまえの前に立ち現れる。」ということか。とにかく最初と終盤のメカアクション以外は、面白かったよ。

『ディア・ドクター』


『ディア・ドクター』 監督:西川美和 出演:笑福亭鶴瓶 瑛太 余貴美子


「見る」の常態はほぼ「暴いている」ことではないかと思うほどに、我々はいつの間にかそれを求めている。だが我々が覗き見ようとする人の中身というものは我々の欲求とは裏腹に「つかみとるほどのかたちもない」、実はもっと流動的で不定形なものではないか。直視して見えるのではなく、直視が勝手に生み出してしまうもの。言うなれば関係者たちの証言は、彼の正体を暴くのではなく、彼を拘束してしまうのではないか。
そこでふと俺はこの映画の真の意味を知るのである。いや真の「たちの悪さ」だろう。そもそもが「つかみとるほどのかたちもない」からこそ、その耐え難さゆえに人は「覗き見る」という行為を求め、気休めの真実を捏造する。おまえたちは勝手に安堵するかもしれないが、覗き見たそれは依然として「わからない」まま。この映画はそれを隠さないし、更にはそのままにすることを許しはしない。覗けば覗いていくほど、ほつれを引っ掛けて拡げてしまう様に覆い切れない不気味な恐怖と疑念をあぶり出してしまうのである。それはつまり「覗くことが恐怖である」という反転を意味する。それは見てはいけなかったんじゃないか。我々の「見る」など、身勝手ゆえに脆いのだし、はなから全てを覆いつくせるものじゃなかったんだと。

でも俺たちは作ってしまった。

我々は見ているものがだんだん見てはいけなかった、つまりは作ってはいけなかったものではないかと思い始める。そして偽医者の目に捕らわれて画面から視線を逸らせない状況の手遅れさと共に、思い知るだろう。言うなれば、見られる為の器を持った「わからない」がそこに在るのだ。
注視ゆえに捕捉されてしまったのか。見てしまったものはすでに自動的に存在している。物語が終わりあなたの緊張は解かれたとしても、終幕には自動的に世界は更新されている。さっきまでの世界からただひとつ増えている、あの彼がどこかに居るという世界だ。我々は彼を生んで、逃がした。そして決して捕らえられない。

『サマーウォーズ』良かったところ(ネタバレ)


  • タイムラグこそが物語をドライヴさせるのだという当たり前を改めて気付かせてくれた

まずはカズマについての物語が、もっとも身近にあるタイムラグかもしれない。彼の言葉が「勝ちたい」から「守りたい」にいつの間にか変わっているのはぐっときてしまった。「家族(一人前)として認められる」ことと「家族であると自覚する」ことの訪れはいつだったのだろう。もちろん「徐々に」というのが答えだろうけど、彼は自分の変化をその始まりには気付けなかったはずだし、また私たちが目撃する変化は始まりであるのか経過であるのか知るはずもないのだ。つまりこの微かな時間差の断層こそが、成長譚あるいは通過儀礼の物語なのではないかということ。タイムラグによる摩擦こそが葛藤であり成長であるということ。
侘助についての物語はどうか。それは「過去に意志が出発したまま、現在に遅れて行動が辿り着く」というタイムラグだ。「家族である」という意志がとっくに出発して行動を置き去りにし、もはや追いつくことはないと思われたものが重なるからこそ、ばあさんの死後、食卓を囲む陣内家にさりげなく侘助が加わってるシーンは感動的である。重なりは劇的でなくていい。本来あるべきものに戻っただけなのだから、「静かにさりげなく」なのだ。
そして主人公の場合は、「未来に意志が置かれ、現在に行動だけが先行する」タイムラグだろうか。当然であるが、主人公は(陣内家を含めた)全世界を救うために立ち上がるのだし、あるいは単純に「負けたくない」という男の意地を奮わせただけかもしれない。少なくとも「陣内家」としては戦っていない。また陣内家も彼を家族とは思ってないし、この先家族になるかもなんてことは想像すらしないだろう(彼氏というウソはすぐバレる)。そりゃそーでこんなことをあらためて言う必要はない。だが私たちが見たものは紛うこと無く家族の一員としての彼なのだ。さらに言えば、ラストシーン(鼻血ぶー)が終幕の先を指し示してくれるはずはないのである。ありゃオマケだ。たとえばこれは東西・ジャンルを問わず絶えず語られてきた「無自覚な救世主」パターンのようなものであるかもしれないということ。「行動」だけが独走し、その意味は周囲の人間だけが受け止める。未来に彼が家族になることを決意し、陣内家の面々がそれを承認する「意志」は遥かに遅れて当然映画には間に合わない。先行する「行動」だけが「意志」を置いて物語に立ち現れる、そのタイムラグこそが画面に映る「現在」に奥行きを与え、着地の向こうの背景を引き伸ばすのである(語られるものだけで物語は留まらないし、映るものだけで映画は抑えられない)。

  • グッジョブ犬

当たり前は気付きにくいものである。ばあちゃんの死の始まりとも言える、朝早く犬が吠えるシーン。あれはほとんどの人が「田舎の風景」としてデジャヴしてしまうシーンではないだろうか。あるいは何か起きてしまったことを告げる定番シーンとして。だが当たり前すぎてその効果について流してしまいがちである。「何か決定的なものが訪れる」ときの「予兆」とそれを「運んでくるもの」は、別々である場合がほとんどで、一体してやってくることは(少なくとも俺がすぐには思い出せないほどには)稀だろう。たとえば、霧がたちこめる(予兆)→服がボロボロで血だらけの女が叫びながら逃げてくる(運んでくるもの)→モンスター出てくる(決定的なもの)、という風な感じである。ではあの犬はなんかっつーと、「予兆」と「運んでくるもの」を同時に表しているんではないか。直後に廊下で騒ぎ出す女こそが「運んでくるもの」ではないかと思うかもしれないが、あれが何よりも「すでに運び込まれてしまった」ことを、「すでに始まっている」ことを、告げているのである(あの微妙に遅いタイミングが何より)。寝起きの主人公の主観画面にまっさきに目に入る犬という構成の巧さによって改めて気付かせてもらった。んで更には後半だよ。人工衛星が陣内家に落ちてくるのだけど、そこでなんとさっきの犬が「決定的なもの」としての役割も担ってしまうのである。パソコンの映像に犬が映ることが、人工衛星がここに落ちてくることの「決定」なのだ。犬優秀すぎる。

  • 敗北のバリエーション

暗算に切り替えるの場面が良かったけど、疲れたから後で・・・。

『アポカリプト』

アポカリプト [DVD]

アポカリプト [DVD]

アポカリプト』 監督:メル・ギブソン


ある部族を征服していく過程(生贄にされるだけだれど)が、色を奪いやがて単色化させるっていうビジュアルイメージで描かれている。主人公たちの道のりが、森という猥雑な色彩からまず風景という周囲の色が奪われ(単色化され)、やがて自分達自身もひとつの色に塗り替えられていく過程として描かれる。
極めつけが、ピラミッドを横から捕らえたショット。生贄たちが乱れることなく、かと言って快活に踏み出すわけもなく、意志を剥奪されたかような「整然とした脱力」で一列に階段を歩き進んでゆく姿と、横スクロールのアクションゲームにあるトラップのような「背景」然とした面持ちでピラミッドから転げ落ちる生首とが、同時に映り込むのだ。ああ偉大なるオートメーション。
個々が単純化し、オートメーションに組み込まれる「支配」の過程。猥雑さを漂白され、ベルトに彼らを乗せるのだ。猥雑を奪われるな。故に主人公は色の中に逃走し力を取り戻すのである。