『ディア・ドクター』


『ディア・ドクター』 監督:西川美和 出演:笑福亭鶴瓶 瑛太 余貴美子


「見る」の常態はほぼ「暴いている」ことではないかと思うほどに、我々はいつの間にかそれを求めている。だが我々が覗き見ようとする人の中身というものは我々の欲求とは裏腹に「つかみとるほどのかたちもない」、実はもっと流動的で不定形なものではないか。直視して見えるのではなく、直視が勝手に生み出してしまうもの。言うなれば関係者たちの証言は、彼の正体を暴くのではなく、彼を拘束してしまうのではないか。
そこでふと俺はこの映画の真の意味を知るのである。いや真の「たちの悪さ」だろう。そもそもが「つかみとるほどのかたちもない」からこそ、その耐え難さゆえに人は「覗き見る」という行為を求め、気休めの真実を捏造する。おまえたちは勝手に安堵するかもしれないが、覗き見たそれは依然として「わからない」まま。この映画はそれを隠さないし、更にはそのままにすることを許しはしない。覗けば覗いていくほど、ほつれを引っ掛けて拡げてしまう様に覆い切れない不気味な恐怖と疑念をあぶり出してしまうのである。それはつまり「覗くことが恐怖である」という反転を意味する。それは見てはいけなかったんじゃないか。我々の「見る」など、身勝手ゆえに脆いのだし、はなから全てを覆いつくせるものじゃなかったんだと。

でも俺たちは作ってしまった。

我々は見ているものがだんだん見てはいけなかった、つまりは作ってはいけなかったものではないかと思い始める。そして偽医者の目に捕らわれて画面から視線を逸らせない状況の手遅れさと共に、思い知るだろう。言うなれば、見られる為の器を持った「わからない」がそこに在るのだ。
注視ゆえに捕捉されてしまったのか。見てしまったものはすでに自動的に存在している。物語が終わりあなたの緊張は解かれたとしても、終幕には自動的に世界は更新されている。さっきまでの世界からただひとつ増えている、あの彼がどこかに居るという世界だ。我々は彼を生んで、逃がした。そして決して捕らえられない。