『G.I.ジョー』

G.I.ジョー』 監督:スティーヴン・ソマーズ


なあ、ブルース・ウィルス主演の超面白い映画といえば『ダイ・ハード』である。けれども、『ダイ・ハード』のアクションは当時にしてもはや純粋にハラハラさせられるものではなく、ナカトミビルは主人公が出くわすたまたまの事件現場ではなくアクションが「演じられる」舞台でしかない(敵がお前はランボーかと主人公を皮肉る場面もある)。それを何よりも象徴していたのが、主人公がナカトミビルにリムジンで招かれリムジンで去っていくという、この映画の始まりと終わりである。

同じように『G.I.ジョー』では、仮面で始まり仮面で終わる。冒頭のエピソードから仮面の大統領へ。ある者の憎しみは仮面によって塞がれ、やがて仮面によって憎しみの出口を得る。 その中間、つまり映画本体は、その憎しみが蓄積し、侵食し、潜行する過程にすぎないのではないか。言い換えれば、沈下して映画から隠れているもの以外は、「演じている」ほどの切迫しか持ちえず、あるいは「偽り」と遜色のないぐらいに私達との距離を保っているということ。主人公やかつての恋人やニンジャ達、彼らの私怨や葛藤は「まっとうに」映画にはうつらない。主人公の元恋人のようにマッドサイエンティストにただ操られていたというオチだけでなく、正しくも玩具的なそれとして彼らはうつるのだ。

しかし、だからこそ彼らのアクションはとても魅力的なのである。加速スーツを装着した主人公達の走りも素晴らしく捨てがたいが、何よりも敵側、主人公の元恋人バロネスとイ・ビョンホンのタッグチームである。そもそもこいつらはどこかおかしい。相手の本拠地から兵器を盗み出す計画なんだけど、任務を100%確実に遂行できるほど相手チームとの戦力差はかけ離れてはいないのは自覚してるだろうに、若干の部下を従えるだけで単身乗り込んじゃうし、脱出について何も考えてなかったのかと疑うほどの直線運動っぷりだし(潜入方法以外はノープランっていう)、あきらかに「捨て身」過ぎるだろう。他でも「現場の刑事は足を使え」みたいにせわしなく組織のために働く2人は微笑ましく、憎めるはずもなく素敵と思えてしまう。パリ街中の追いかけっこでも、悲壮を纏うのはどっちだろうか。当然に追われる側のバロネス&イ・ビョンホンである。小ばえをはらう程度の苦労といった顔で余裕そうにみせてるのだけど、すっげー追い詰められてるし。ギリギリだし。

そうなのだ、バロネス&イ・ビョンホンに惹かれるのはその「捨て身さ」なのだ。


ダイ・ハード』でのブルース・ウィルスが、「演者」ゆえに、アクションヒーローとして傷つけば傷つくほど、決して降りられないステージとしての「宿命」を色濃くさせたように、演じられた世界の中で、偽りの動機のもとで、バロネス達の「捨て身さ」は、この世界を泳ぎ切るための必死の「アクション」としてそれ自体を輝かせる。
バロネス&イ・ビョンホンエッフェル塔に兵器を撃ち込むためビルをかけ上がるのだけど、イ・ビョンホンは屋上近くのある階に、バロネスは屋上へと別れる。イ・ビョンホンから撃たれた兵器の軌道は、屋上からの別視点でバロネス越しに捉えられる。「達成」の地点で、それぞれの視線が交わることの美しさに、「達成」の意味は必要ないのだ。


それにしても、「鉄の仮面を被せて憎しみを閉じ込めた私達の罪は巡り巡って、ふたたび仮面の者によって(または仮面によって)つき返される」というのは面白い。物語的なテーマも含めるのならば、「自分が好まない者を消し去ることはできない。視界に入れないだけでいずれはおまえの前に立ち現れる。」ということか。とにかく最初と終盤のメカアクション以外は、面白かったよ。