『グエムル -漢江の怪物-』

グエムル -漢江の怪物-』 監督:ポン・ジュノ 出演:ソン・ガンホ ピョン・ヒボン パク・ヘイル ペ・ドゥナ

怪獣の“サイズ”ってとても重要だと思う。とりわけ映画においては。他の要素ももちろんあるけど、“サイズ”が怪獣の分類を決める。畏怖を抱くか・抱かないか、虫ほどのサイズの人間が殺されるのか・人間が虫ケラのように殺されるのか、いち人間が立ち向かえるか・もはや天災なのか。だから、みんなゴジラどうのって言ってるけど僕は全然ピンとこんのですよ。ゴジラも怪獣映画の歴史も全然知らないから是非僕を許してほしいのだけど、これは『エイリアン5』ではないのですか?フィンチャーの『エイリアン3』のように、「お宅のエイリアンお借りします。」なポン・ジュノ版『エイリアン』。

あと、怪獣映画かと思ったら葬儀のシーンから怪獣はほっとかれて別の映画になるって聞いてたんだけど、そうか?アメ批判とかも、いかにも本作のメインテーマかのように言及されてるんだけど、違う気がする。たしかにそうゆう批判精神は随所に込められてるけどこの映画の本質ではないと思う。葬儀のシーンからの展開は、ただ単純に「本部と連絡が取れねぇ、クソッ!こうなったら、てめえらでやるしかねーゼ」っていうまさに『エイリアン』のキャッチコピー「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」を正統に継承したものではないだろうか?その状況の作り出し方っていうのが、それだけでメインになるくらい面白いし、かつポン・ジュノらしさも出てるってだけで。

というわけで、そんなエイリアンがついに太陽の下に放たれ群集相手に大暴れする冒頭の展開にあわわと大興奮だよ。しかもそれ以降テンションが落ちるかと思いきや、上げられっぱなしの未曾有の面白さだったよ。なんだ、これは。とんでもないものを観てしまった。グエムル傑作である。

(以下、ネタバレ。)


グエムルに銃は効かない]
とにかく何故か銃だけは効かないんである。効くのは鉄の棒とアーチェリーと火炎瓶。なぜだろう?僕はこの記事を思い出した。

http://d.hatena.ne.jp/nikuzombie/20070410

「『デッドライジング』をクリアしたんです。
銃器店のオヤジとか、こなし損ねたイベントは多数ありますが、メインストーリーは全部すませました。
しかし、このゲームでのチェーンソーの強さは異常なくらいだ。マシンガンやアサルトライフルより役に立つ。
工具のくせに、軍隊が使ってる武器より優秀とは。
まあ、ホラーですからね。ホラー界隈では、もう30年前に「やはりチェーンソー」という結論出てるから。
この優遇ぶりも、当然のことと受け止めるべきですのう。」


ここで言いたいのは、「なんで生身の人間が銃の効かない怪物を棒で突き刺せんだよっ!」っていうリアリティどうこうのツッコミではない。(てか、この映画にそうゆうツッコミするヤツは今後も面白い映画をスルーしてしまうだろうとっても憐れな人間である。)そうではなくて、「銃が何故ここまで冷遇されたか?」ということである。人を殺す道具としてではなく、まさに「記号」として映画に映るときの銃、それはこれまでとても優遇されてきた。立場の優位性を示すための「銃」、ぱんと音が鳴り向こう側の誰かが倒れるという暗黙の作法、もちろんそれらは「記号」として銃に与えられた当然の振るまいである。(余談だが、人間を超越した者は多くの場合、「銃が効かない」ことによって証明される。そう、ディオ然り。)だがそれは「映画である」ということと何ら関係ない。物語の道具であっても、画面を支配する要素としては反対に脆弱とすら思える。言わば、ただ漫然と画面に立ち現れる不戦のシード選手。その記号性に傾き盲従しかねないゆえに、それは権威主義的とさえ言えるだろう。
だが、その印籠は何のためにある?
たとえば、『エイリアン2』におけるあの有名な「どつきあい」。物語が呼び込んだのではなく、まるで本来そこに在ったのだと画面に埋め込まれるようにして選択されたそれは、ゆえに瑞々しく強靭であった。キャメロンはどうしてそれを選び取ったのか。そのことと、ポン・ジュノがなぜ銃よりも弓矢や鉄の棒を選び取ったのかは、同じ理由であるとは言えまいか。『グエムル』のクライマックスは、脆弱なる銃では得られなかったであろう“アクション”を手に入れたのだ。

 

[滑稽なる偉大さ]

整備されたあの水路はいずれは枯れてしまうだろう。しかし本来の川は形を変え場所を変えいつまでも流れ続ける。
ある愚行が平然と、法律でもあるかのように疑いもされず、大規模に継続されている。それは力強く雄大な大きな川に土を盛り2つの細い川を作るかのような行為なのかもしれない。別に「何故にシリアスorコメディ?」な話をしたいわけではないのだけど、たとえば「シリアス」なるものにはある種の滑稽さが消臭(あるいは隠蔽)されていることがある。この映画においてもコメディ部分(と言われそうなところ)を「異物」に感じ、シリアス場面での楽しみを害されたと思う人がいるかもしれない。でもそれは映画のせいではなく、鑑賞者の中にそんな仕切りが存在しているからではないのだろうか。『グエムル』は「コメディ要素も入った〜」といった映画では無い。それらの分類は言わば派川であり、ポン・ジュノが目指すのは、もっと源流に近い。
ペ・ドゥナが矢を放って直後に敵に背を向けるっていう「決めゴマ」な演出や、親父がジェスチャーで「俺のことはいいから、お前さっさと行け!」ってやる場面がスローモーションっつう過剰さは、グエムル屈指のかっこよさだと思うけど、あらためて考えてみると他の映画でやられたら笑ってしまうかもしれないような精妙なバランスで滑稽さを孕んでいる。まあ他の映画監督はやらないだろうな、というくらいの。王道でいながら猥雑さを飲み込んでいるような、あるいは不気味さと馬鹿馬鹿しさを背負いながらも堂々と見得を切れるような、これらの力強さは他で滅多に見られるものではない。思うに、何を流したいか決まったら自動的にどの川で流すかも決まってしまうんじゃないだろうか。それは良く言えば“整備された”、悪く言えば“窮屈な”。あらかじめ溝の形、場所は決まっている。もしかしたらそこはやがて澱み、ヘドロが溜まって、みんなの興味を失ったのかもしれない。流れに合わせて、自由に形が決まる。その奔放なる力。形を選び取るのではなく、形がないからこそ衰えない力。ゆえに『グエムル』は「コメディ」という域までをも飲み込む巨大な映画なのだ。


ポン・ジュノのアクションは効く]

怪獣の登場シーン。それは(もちろん初登場もそれ以降のすべての出現時も)、怪獣映画とってきわめて重要な意味を持つ。『エイリアン』に代表される、「静から動」への急なハンドリング。例えばそれは標本がいきなり動き出すような恐怖だ。そしてゴジラに代表される、「静から動」へのゆっくりした移行。例えばそれは徐々に霧が晴れて正体がわかるような、じわじわとジェットコースターのてっぺんに近づいていくような恐怖だ。『グエムル』でもその怪獣映画のセオリーとも言える演出は存分に活かされている。それどころか、その演出が作り出すものの可能性、それはこれができるっていう常識、そんな枠を軽くぶち壊してしまってるのではないか。セオリーを継承し、更にはそれを凌駕してしまったのかもしれない。そう、本来の川に形はない。
下水路を探し回って、一家が疲れて売店に戻ってくる。そこでの、親父の話が退屈で次男と長女が寝ちゃうってシーンとその後のグエムル登場シーン。ここはただ単純に、コメディのシーンがあって、一転シリアスなバトルシーンになるっていう意味しかないのだろうか?違う、僕はあまりの衝撃に震えた。

アクションとは一連の運動を切り取ったものであり、画を繋いでいくことである。そうであるならば、怪獣の登場シーンもまた「静から動」への切り替わるようにまぎれもないアクションであり、そしてアクションに無限に近い組み合わせがあるのならば、それは“観客を驚かす”しか能がないわけではないだろう。今の画が後の画に繋がっていく、その連動はこのシーンにおいても、つまりコメディのシーンが後のグエムル登場のシーンに何かを繋いでいくのである。
それはまるで、開演5分前に前座が会場を“静寂”に演出しているかのようだ。次男と長女は場を“静寂”に導き、父親はそこが“静寂”であることを示すかのように〈サイレント〉なBGMを流す。そしてソン・ガンホの開幕の合図とともに、主役が主役のために用意された“静寂”なる舞台に登場する。そこであなたが見たもの。(スクリーン内の)スクリーンのように扉越しに映し出される怪物の姿。僕がその瞬間に浮かんだ言葉を使うのならば、それは「神々しい」。まるで絵画のようにハッとしてしまう「静」の気韻。ありえないだろう、冒頭で暴れまくったあの怪物がスケールダウンせぬまま、額に収まっている。その厳然さ。あるいは「静から静」であっても怪物が怪物のまま呼吸していることの驚嘆。

画を繋いでいくこと=アクションにおいて定石などなく、僕は定石が“未知の手”になったのを目撃している。ポン・ジュノは恐ろしい。ルールが通じない相手ほど恐ろしいものはないのだから。


[家族の物語]

で、この映画のテーマをあえて言うとこの「繋げる」ってことなんじゃないだろか?この映画はもちろん家族の物語である。家族の意義とは「いっしょにいること」ではなく、「何かを繋いでいくこと」であるとポン・ジュノは言ってる気がする。この一家は、連係プレーこそあれど、共同作業はない。同じ点からの行動は無理が生じ、それぞれ別の点から同じ点へ向かうときはスムーズになる。「いっしょにいること」が許されるのは“休息”のときだけなのだ。まさに家族という“連動”がこの映画のアクションになっているのである。

火炎瓶→アーチェリー→鉄の棒でとどめの、見事な“連動”。(そうそう、ペ・ドゥナが矢を放った直後に敵に背を向けるとこなんて、完璧に「兄ちゃん後はまかせたっ!」じゃん。)その前の次男が娘の居場所を突き止めて、長女に“繋げる”とこもぐっときたなぁ。そして娘も、隔離されてはいるがこの一家の“連動”に仲間外れにされているわけではない。娘もまた必死な行動によって、新たな家族をソン・ガンホに“繋げる”のである。

「いっしょにいること」それは「そこに留まる」ということ。そこにアクションはなく、ゆえに簡単に“権威”にひれ伏してしまうのだろう。家族の物語とアクション映画がイコールで結ばれるこの奇跡は、この窮屈に固定された社会を打破する力、それが何であるかを教えてくれる。


その他あれこれ。

  • 下水路を捜索中、何か気配がして銃を撃っちゃうシーン。親父が手前で左側に視線を向け、続いてソン・ガンホがやってきて中央の位置で右側に視線を向ける。最後に次男がきて奥の位置でそのさらに奥に視線を向ける。すると、その空間はスクリーンという枠をはみ出し、不気味に広がっていく。奥には壁が見えてるのに、天井があることも左右に壁があることも把握しているのに、その空間は無限に広がっていくのだ。“見えているのに見えない”という恐怖。あぁ、この連携プレーも見事すぎる。
  • 面白一家。それだけで破壊力がある。なんだ、面白一家VS怪獣て。最強のデストロイ映画。