キヨシ


黒沢清の『トウキョウソナタ』がカンヌで審査員賞、というニュースを聞いた。素直に嬉しいし、そして何かドキドキする。これから為すべきことは何か、いま目ひんむいて見るべきものは何か、それを世界が共有しようとしているかのような感覚がある。もちろん「驚きました。僕たちが家庭の中で抱えている小さな問題は、どうやら世界の問題でもあったようです。」って黒沢清の素敵すぎるコメントに感化されただけだけど、何かこう、ここ2〜3年の映画の流れに、雑踏の音がやがてひとつの音楽になっていくような不思議さで、その前段階というべきものを感じている。それは、ひとつの本を書き終えてパタンと閉じようかとするかのような、覚悟と言えばいいのか、その先に向けた「今」についての意思である。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で主人公は最後に「終わった」とつぶやいた。徒労感というには少し穏やかすぎるような、安堵というには少ししんどいような、けだるさでもって。その「終わった」は、僕は、「俺の話はここまでだ」と聞こえたんだ。

じゃあ、その先は?

スピルバーグの『ミュンヘン*1での、「精神の焦土」とも言うべきあの光景は、今はもう古くなってしまったのかもしれない。間にはロケット弾が飛び、死体と瓦礫と焼けた土。僕らは「何も無くなっていく」光景をただ見つめていた。うまく言えないけれど、これからはそうじゃない気がする。わからないけど、する。