『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』


ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 監督:ポール・トーマス・アンダーソン 出演:ダニエル・デイ=ルイス ポール・ダノ ケヴィン・J・オコナー


それが「在る」ことの荒々しさは、いずれお前を殺しかねない。この映画は問うのである。「お前らの見てきたそれは本当に在ったか?」と。映画の現前性が行き着く先は、我々が感じる過剰に凝縮され加速する世界だ。剥き出しの大地の上に我々の平穏はないように、スクリーンという皮膚を貫いて、そこに「在る」ものの鼓動が、血流が、呼吸が、そのひとつひとつの音がひたすらに、イスの上で無防備に固定された僕らを殴打しつづける。僕は映画に詳しいとは言えない方なので、笑われてしまうかもしれないけど、この映画でやはり思い浮かぶのは、黒沢清だったりする。それが「在る」ことのゆるぎなさや、それゆえの脅威において。しかし違うのは、境界に対する在りかたと、その認識である。言うなれば境界に対する、黒沢清の「見えるからそれは在る」という反証と、PTAの「在るものを見せてやろう」という証明。それは矛先の違いでもある。黒澤清の映画は、ゆえに常に虚ろなのであるが、ではお前を殺そうとするのはどっちだろう。
お前らの見てきたそれは本当に在ったのか。「在る」ものを「見せて」やろう。それが黒沢清とはまた別の意味で容赦ないものだということは、しょんべんをチビってから気付いた。


[お前らの見てきたそれは本当に在ったか?]
世界を変えられないことは当の昔に告げられている。世界対個人の戦いは今じゃもうかすり傷程度しか与えられてないような気がする。最近の映画をみると、そのかすり傷は、もっと言えば今世界に挑めているのはいずれも、世界にとっては刹那の「親父のかんしゃく」でしかないのではないか。『ブラック・スネーク・モーン』のサミュエル・L・ジャクソンや『消えた天使』のリチャード・ギア。はたからみると、ただわめき散らしているだけのオッサンであるが、これは紛れもない事実である(『ジャンパー』の主人公やいまだに「セカイ系」してる閉じたヤツや、近年のガキはそのまんまガキだったんだよ)。では、親父とはなんだ?それは敗北を知っている者の物語だ。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公プレインヴューもまたひとりの親父である。彼らとは決定的に違うものがあるけれど。
たとえば僕らのアバッキオ先生は言った。大事なのは過程であると。目的は果たせなかった(世界は変えれなかった)。だがそれに続く道をほんの少し先に進めれたのかもしれない。Zに到達するまでのAからBの過程。しかしその「過程」とは、所詮Bという地点からの「創作」に過ぎないのではないか。映画は無残にもその事実を我々に叩きつける。お前らの見てきたそれは本当に在ったのかと。我々はその「創作」を証明しうることが出来たのだろうか。

トゥモロー・ワールド』はものすごく大きい意味を持った映画であると思う。ある者がある者へ。あなたが誰かに。人々の行動は、言葉よりも脆くて、記憶よりもあやふやな、同じ希望で繋がっている。 何がじゃない。どこへじゃない。理由じゃない。スクリーンが閉じるまでそれは繋がっていたのだ。それこそが僕らを熱く震わせたんだ。

僕はちょっと前に『トゥモローワールド』という映画を観た。その映画は、僕らの眼前に振り下ろされた残酷な問いに挑むかのように、こう宣言したのだ。「それを誰よりも映画に証明させてやんぜ」と。つまり、AからBへと実際に進んだ「距離」なら証明しうることが出来る、と。ひたすらに孤独な『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』という映画は、奇妙なことに『トゥモローワールド』にある意味で似ている。「見えるもの」の容赦のなさに、映画はどこまで近づけるのだろうか。だがそれだけが一人の男の存在を証明しうることが出来るのである。

『トゥモローワールド』と同じ地平に、世界対個人の戦闘史もまた到達したのだ。



[主人公プレインヴュー]

「見えるもの」は私をめっためたに打ちのめそうとするかもしれない。だが私もまた「見えるもの」を直接この手で叩き伏せさせることが可能なのだ。私が殺されない限り、「見えるもの」は私を肯定する。
では「見えないもの」が私を否定するのか?違う。真に「見えないもの」は私を否定しない。真に「見えないもの」は「見えるもの」のその先にある。私が「見えるもの」に拮抗しうる限り、私は「見えないもの」を拒み続けることができるだろう。私を否定するものは誰かの「見えないもの」である。

彼は血の在り方として孤独だった。かつて自分の血(家族)を切り離した。それは血が孤独であるから。だがその最初の吐き出しは耐えがたい痛みを伴ったのかもしれない。いや、血を吐き出すことは常々に、痛い。生きる行為が試練と共にあるように、その痛みは彼の宿命である。だって血が孤独だから。
もしかしたら、というか僕のまったくの憶測に過ぎないのだけど、彼は1度たった1度だけ、神に許しを乞うたのかもしれない。血をいれかえてくれと、たった一度だけ。その過去の決定的な敗北を、奥底に消えない血痕のようにひきずっている。かつてたった一度ひざを地につけてしまった、(パイプラインのためにあの偽預言者の言う神に対してつけたひざなど取るに足りないほどの)あの雪辱は、やがて晴らされねばならない。てめえの血はてめえで証明しなければならないのだから。
ゆえにポール・イーライ兄弟は彼の前に立ち現れたのかもしれない。いずれ決着をつけなければならない過去として。イーライとは、かつて自分が切り離したもうひとりの自分である。もうひとりの自分が進んだかもしれない道は、誰か(自分)の「見えないもの」として、彼を否定しにやってくる。祈り(誰かの見えないもの)は彼の孤独な血を殺すのだ。
ラスト。彼はイーライを殺して、「終わった」とつぶやいた。グッジョブ。


ゼア・ウィル・ビー・ブラッド
石油がドーンと噴き出してくる。もちろんこの映画のもうひとつのクライマックスである。東映ドラゴンボールのサブタイトルぐらいにメガ盛りしたい「超」カタルシスである。ここだけはいつものPTAっぽかったよ。噴き出してからの一連は、過去の『マグノリア』『パンチドランク・ラブ』の流れを汲む彼お得意のテクニックだと思うけど、でもやっぱその効用も、殺傷力も全然違うと思った。パッカーンと全身の穴という穴が開いて、そこからすべてが、過去作にあったかつての「感傷」すらそこから外へと流れていくような、全能感と無能感、征服の血沸きと降伏のエクスタシーが渾然となった破格の体験だった。
「在る」ものを「見せて」やろう。それが容赦ないものだということは、しょんべんをチビってから気付いた。