『イースタン・プロミス』

イースタン・プロミス』 監督:デビッド・クローネンバーグ 出演:ヴィゴ・モーテンセン ナオミ・ワッツ

(ネタバレ)

浜に打ち上げられ身動きが取れなくなった鈍重な生き物のように、重力にひれ伏す売春婦の裸体は、それでいて艶やかな美しさを失わず、故郷のうたを歌う。ヴィゴ・モーテンセンは彼女に言うのだ、もう少し生きとけよと。その「もう少し」という言葉の中には、忌まわしさを受け入れ、だがそれに決して屈しないという決意がある。
後半でヴィゴは潜入捜査官であることがわかるのだが、(後から思えばそれっぽい描写が分かりやす過ぎるぐらいあったのに)彼がそれまでその正体を偽っていたなんて思いもしてなかった。彼が裏世界の住人であることを露ほども疑わなかったのだ。だけどもそれは正しい。彼は偽ってなどいないのだから。闇に沈むことと、闇に拮抗することは同義である。彼は闇に魅了され、体の半分を差し出している。半裸でファミリーの面接を受けるシーンや、タバコの火を舌で消しネクタイぺろーんってするシーンは悶絶のヤバさ。あなたガチじゃないすか。
彼には常に2つがある。
ヴィゴがぐっとセクシーさを増すヴァンサン・カッセルをなだめるシーンも、その奥には、分厚く幾重にもコーティングして押し隠したその内には、まるで憎悪が苦痛に沈み高純度に凝り固まったかのような黒々とした殺意があるのだ。もちろん表面にあるその性愛は偽りのものではない。つまり、共に彼に巣くう傾倒と拒絶、である。
話題になった「サウナにて全裸でやり合う」っつー超かっこいいシーンにおいても、ヴィゴのイチモツ含めた肉体は、やはり2つのことを語っていた。ふきっさらしの無防備さと剥き出しの凶暴性。それは二面性というよりも、悪魔にチップをすべて差し出して、手持ちのすべての札で挑むような、駆け引きなしのフェアさ、対等にあるべきものとして存在している。悪魔に対するアンフェアさ、つまり現実に換金されない陳腐な理想も、消失を最初から甘んじているかのような刹那の衝動も、ここにはない。
2つに振れることで何とか倒れないようにバランスを取っている、彼がこの世界に「立てている」とはそういうことなのかもしれない。ラストは、ヴィゴがどちらに振り切れるか分からない不穏さがあってそれもまたグッド!だったけど、この映画における独特の禍々しさは一体なんであろうか。子の存在がすべて去勢されているのが怖い。ナオミ・ワッツの子は流産し、床屋の息子もボスの子であるヴァンサン・カッセルも自らの父親に生きながらに殺され続けているようなものだ。言うまでもなく死んだ売春婦の子も母に望まれず生まれ、そしてマフィアに殺されかけた。何も託されない閉塞の先が本当の闇であるかのように。『トゥモロー・ワールド』で、主人公が「百年後には誰も見ないぜ」とか言って芸術品を保護する兄を笑うシーンがあるんだけど、これはあのシーンと同じ恐怖といっていい。リアル『トゥモロー・ワールド』とでも言うべき絶望がぶくぶくと気配を消しながら、一方で不穏さが堂々と横たわる世界。彼が埋もれまいと立っているのは、つまりはそんな世界なのだ。