『レミーのおいしいレストラン』

レミーのおいしいレストラン [Blu-ray]

レミーのおいしいレストラン [Blu-ray]


レミーのおいしいレストラン』 監督:ブラッド・バード 制作:ピクサー・アニメーション・スタジオ

anyone can cook  「誰でも名シェフ」

天才料理人グストーと料理評論家アントン・イーゴを繋ぐ言葉。
たとえば自分探しとは、いくつもの「○○にはなれない」を通過しなければならない。ネズミの主人公レミーは「○○にはなれない」ことに対してあまりに無配慮である。天才はいつだって無自覚だ。我々は彷徨う。だが天才は「彷徨えぬ」ゆえに、人々に殺されるかもしれない。この映画には、「あなたが日常でネズミを必要と思わないのと同じように、あなたの日常に天才なんて要らないんでしょ?」と言われてるような強い決別がある。孤独で、たくましい決別が。

物語が、どこかに線を引いて、よーいドンするものなら、この映画はどんな軌跡を描いて、そして一体誰が参加できたんだろう。この映画に、誰かが誰かを願い、やがて届けられる意志があるのだとしたら、僕は、グストー(師匠)-レミー(主人公)-アントン・イーゴ(料理評論家)のラインにしかそれが見えなかった。他の者には結局何も伝わらず、と言うよりそこに何があったかもわからないまま映画は終わるのである。もちろんレミーのパートナーであったリングイニも例外ではない。

クライマックスが、酷い。大量のネズミが縦横無尽に這い回る厨房のクライマックスが酷い。いやそりゃビジュアル的には大変おもしろいのだけど、厨房で大量のネズミが料理を作るってのはないだろ。しかも僕ら日本人が感じる以上にフランス人にとってネズミというのは忌み嫌われる存在なんだし(ネズミぶらーんのあんな店があるくらいだし)。そしてそれは単に鑑賞者の生理の問題だけではない。つまりはそれが示すものは、その才能は凡人にとって天秤にかけられるものでしかない、という事実である。リングイニ達はシェフを呼びたいなら閉店まで待ってくれと言った。
レミーがいる世界それ以前と以降で、世界はどう変化したのだろうか。何も変わっちゃいないのだ。言葉を変えよう。レミーを本当に「理解」できた者はいたのだろうか。言うまでもなくレミーとリングイニは利害関係で結ばれていただけだ。最後まで。女の料理人はレミーの味を最後まで「理解」することはなかったし、ネズミたちもその才能が「毒を見分けられる便利なモノ」程度にしか(最後までグルメに目覚めることなく)思っていなかった。*1その才能を「理解」できるのは、「その才能以外は全て同等に価値がない」と思っている者だけである。そう、それはアントン・イーゴただひとりである。あのクライマックスは、通常パターンの「逆境からの特大ホームラン」ではなくて(いやそうなんだけど)、天才と凡人を分かつ審判の場面であったのだ。
そしてそこでやっと僕らは気付くだろう。あの言葉は、ひとりの天才から僕らに向けられたものではなく、グストーからアントン・イーゴへと、いずれ現れるであろう天才シェフを通じて手渡されるバトンであったことを。『レミーのおいしいレストラン』は、才能の使い方、才能の生かし方の物語ではなく、それぞれにとっての才能の据わり場所を求めんする物語であるのだ。

「anyone can cook」、孤独な言葉である。イーゴは彼を知らなければならない。なぜなら誰も彼を知れないのだから。

*1:あと、去って行った料理人たちも戻ってこなかったしね。