『ハンコック』

『ハンコック』 監督:ピーター・バーグ 出演:ウィル・スミス シャーリーズ・セロン

(ネタバレ)
最近思うのが、ヒーロー映画の続きものって面白れーな、ということ。だってヒーローを続けていくってスゲーややこしいから。ヒーローであることを維持するには、それを「日常化」させていくしかない。苦悩を選んだはずのヒーローたちが、結局はシンボルになることを選び取るっていう。
ダークナイト*1は、前作含めバットマン完成に至る道のりを丁寧に描いたものだと思うけど、何よりバットマンのモチベーションの部分をツッコまれてたような。だからこそ、結局は罪を背負わされて真正バットマンになるラストに意味があるわけで。バットマンは、ヒーロー業を(財力と体力が続く限り)日課としてこなしていけるかもしれないが、精神面でそれはいつまでも「非日常」でしかないことをジョーカーに暴かれ追い詰められるのである。

スパイダーマン3』の感想で、欲張りすぎて散漫て意見が多いのかもしれない。だけどそれは、まったくの逆で、カタルシスを求めなかったからこそ散漫にならなければならなかったのだ。俺はあの「一気に3人の敵を相手にしないといけない」ことを、敵ひとりに対しての実質的(=上映時間)な時間配分が3分の1になったのではなく、主人公の敵を相手にする体感速度が3倍になったとしか思えないのである。『2』での敵ドック・オクに対する心的負荷の3分の1で、『3』の敵たちの相手をすること。スパイダーマンは、ヒーローを続けていくこと=「日常化」のために、そうした「平準化」を行ったのではないのかと。
スパイダーマンはクライマックスを挟んで、やがて許し許される。では「憎しみ」はラストのサンドマンのように映画から無責任に消え去っていったのだろうか。ただスパイダーマンはそれを背負うことをやめただけかもしれない。憎しみにカタがつかないのはそれが日常のレールに乗ったときである。己にどんな深刻な問題が降りかかろうとも、そのどれもが決して「主題」になることはない。「すべてを背負うこと」はイコール「すべてを背負わないこと」であるのでないか。それがヒーローの「日常化」であることを、『3』は示そうとしたのである。
また『ボーン・アルティメイタム』のボーンに至っては、その「平準化」すらも必要ない。すでに日常と非日常が反転しているのだから。日常で息を潜め、非日常で呼吸を取り戻すのである。ラストの行方不明=生存証明って超かっこいい。
『ハンコック』もまた、その地点からスタートしてると言える。というかボーン・シリーズと似ている点が結構多い(過去の記憶が失われているとか)。彼はあらかじめの超人であり、そのスタートこそが彼を悩ませている。ヒーローに広報がつくというアイディアはとても楽しく観れた。これはつまり、ボーンの旅のように、ヒーローであることを「非日常」に振り戻そうとしているのではないか。刑務所での一連はホントにぐっときてしまったんだけど、その先には、またもボーンと同じような運命が待っているのだ。ボーンは最後に「てめーが志願したんじゃねーかよ」という事実を知る、ハンコックは唐突*2に「自分はシンボルにしかなれない」ことを知る。なんせ人間になろうとすると必ず邪魔が入る運命なのだから*3アメリカの「世界を裁く者が必要だ」という考え方の傲慢さに、(自覚して)アメリカ人自ら折り合いをつけたような、月にペイントのラストシーンは普通に素敵だと思いました。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hke1120/20080825

*2:評価が低いのってここの唐突さなんじゃないかなあ

*3:非日常化の究極は人間化