『ダークナイト』その2


前回レヴュー 2008-08-25 - HELLOGOODBYE


ダークナイト』 監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベール ヒース・レジャー アーロン・エッカート

ここ最近、電車とかでなんとなく考えてたことを書くゼ。

ジョーカーの手下というのは率先してやられにいくような「戦闘員」としてのそれではない。どちらかと言うとジョーカーのアシスタント的役割が多いというか、ショッカーというよりもマジシャンの隣にいる水着の女の子のほうに近い。それはジョーカーが暴力の行使者ではなく混沌の創出者であることを証明している。つまり、これはショウだ。
ひとつ面白いシーンがあって、カーチェイスのシーンでトラックの荷台からジョーカーがロケット弾撃つんだけど、バズーカを部下から渡してもらう場面をいちいちというか、きちんと入れてるんだよな。そりゃ状況からいって当然かもしれないけど、わざわざ渡すって所に、「自分は撃たない」ことの非戦闘員であり演出の裏方であるという自覚が、更には彼らが何に惹かれてジョーカーの元に集まっているかが、ちゃんと見えるんだよ。てか、ヒーロー映画であんまりああゆう段取りを見ない気がする。「もったいぶる」演出としての、部下に持ってこさせるというのはよくあると思うのだけど、あのシーンはむしろそれとは正反対である。バットマンが、気軽に空を飛び、簡単に技を繰り出せるスーパーヒーローの反面として、重たく転び、繰り出す技がむしろ生身であることの「限界点」を示しているように、あの段取りもまた、「現実」の手際を挟むことで、つまりは映画的「もたつき」を持たせることで、ジョーカーが演出するショウの、その舞台である「世界」が何を指しているのか、明確に、観客は理解を越えて、体感させられるのだ。
バットマンがバット・ポッドやコウモリの形をした手裏剣を持つのと対照的に、ジョーカーは、そのフェイス以外に固有性を持たない。武器は使い捨てなのだ。ナイフ派であることの主張もテキトー過ぎる。逆に言えば、執拗なまでにフェイスだけはその固有性を維持しようとしている。ナースの変装まったく意味ないじゃん!「ジョーカーであること」以外なにも持たない。何か固有を持てば、そこから秩序が生まれるから。ナース姿のジョーカーをみたとき、僕らはすでに秩序が引き裂かれていることを知る。
冒頭の、同じフェイスの人間が複数いるということが引き起こす不安感を、後半に至っては、もはやジョーカーひとりで具現してしまえるのだ。