ゾンビ

お勉強の為に観てんじゃねえよと言いたい。突然だが言いたい。たとえば平成生まれのヤツが、過去の名画を鑑賞して、批評することで、その映画に何か新しい価値を与えたことはあるだろうか。その解釈が、僕らの記憶に眠る映画を蘇生させ、新鮮な空気を吸わせたことはあるのだろうか。語り尽くされてきたものに対し、僕らは「ゾンビはゾンビ」だとしか言ってこなかったんではないのか。
過去の映画は、改変不可の「資料」ではない。永遠を与えられた映画の安住を妨げたい。やつらの墓石を破壊したい。過去の映画を「お勉強」とか言ってるヤツは墓石に書いてあることしか見てねえんじゃねーのか。その下に眠る、みすぼらしい死体を見ろ。お前の目には美女が映るかもしんねーし、棺の中は空っぽかもしれない。もしかしたら輪切りにされたお前自身が映るかもしれない。ヌケサクだ。
もちろんこれは自分自身に言っている。
ネットで批評を読むような僕にとって、過去の名画の批評があまり見当たらないというのは、渇きを癒せないという意味で死活である。なぜかマニアックな映画のレヴューはあるのに、amazonレヴューではどっかのオッサンがちょいとしたどっかの知識をひけらかしているだけだというのに。スーパーマリオよりも先にGTAをプレイする世代のガキの『ゴッドファーザー』評は見たことが無いのは、何故だ。
超偉大な名作となると、知らず知らずのうちに「観るポイント」というのを刷り込まれている。僕と同じ20代でも高校のときからいろんな映画を観漁ってるような人はもっとじゃなかろか。多くの批評が、その「観るポイント」と自分との差異、もしくは今の映画との差異を、基準に語ろうとする。それは結構。結構ではあるが、その映画が過去への従属から解き放たれる事は無い。それは作り手にも言えるでしょう。世の中にゾンビが増えるだけで、出生率が下がり続けるだけです。僕は親がモンスターの、学級を絶賛崩壊させ中の、ゲーム脳のあなたに期待している。あなたのゆとりレヴューに期待している。