トムしゃん
トム・クルーズに誠実な言葉を与えてはいけない。だって彼孤独だから。
トム・クルーズって、もはやアイドルじゃないし(トム・クルーズの映画っていうのは通じない)*1、かといっていわゆる演技派俳優なのかといえば、そうかもしれないけどやっぱりトム・クルーズであることを引きずり過ぎているし、それならばニコラス・ケイジやウィル・スミスなどのハリウッド・スターのように出演作にその人のアクがどうしたって出てしまう、(彼が彼であることに作品が上塗りできない)って存在なのかっつたらそーでもないっていう。さらに言えば、トム・クルーズは『トゥモロー・ワールド』のクライヴ・オーウェンや黒沢清映画における役所広司にも決してなれないのである。彼は作品世界に従属的であるが、トム・クルーズとして作品のどこにも居場所がないような孤独も我々は見てしまうのだ。なのにどうだろう、いやだからこそなのか、映画を貫いてその先の我々の世界をえぐり、大きな爪痕を残すような言葉は、トム・クルーズにしか持ち得ない気がする。『マグノリア』や『トロピック・サンダー』でのトム・クルーズの言葉の誠実さというのは、作品世界あるいはその中の登場人物に対してではなく、映画が受け止めきれないために我々が被弾してしまうような、作品に収まりきれない射程距離と貫通力を持つ。*2 もし「映画」という存在そのものをフェイクであるとするならば、映画内での誠実さとはつまり、我々への不誠実さということになる。それを時として飛び越えてしまうのがトム・クルーズという存在なのではないか。*3 もちろん全ての作品というわけではない。だがトム・クルーズに誠実な言葉を与えてはいけないのだ。その時我々はもう安全地帯には居れないのだから。チェンソーの殺人鬼のようにスクリーンを突き破って彼は言葉と我々を対峙させる。いやもしかしたら「言葉」すらも必要ないのかもしれない。『宇宙戦争』での逃走は、いわば父親への過程であったのだが、旅の終わりはすなわち父親としての終わりでもある(娘を引き渡す)。ラストシーンで佇むトム・クルーズというのは、作品内の悲劇性を越えて、目指す先にある逃れられない「終わり」を、トム・クルーズという存在そのものを媒体として、我々と対峙させるのである。それは宇宙人のどんな殺戮よりも暴力的であった。
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