『イントゥ・ザ・ワイルド』

イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]

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イントゥ・ザ・ワイルド』 監督:ショーン・ペン 出演:エミール・ハーシュ

あらすじ

1990年夏、アトランタの大学を優秀な成績で卒業した22歳のクリスは、将来へ期待を寄せる家族も貯金も投げ打って、中古のダットサンで旅に出る。やがてその愛車さえも乗り捨て、アリゾナからカリフォルニア、サウスダコタへとたった一人で移動を続け、忘れ難い出会いと別れを繰り返して行く。文明に毒されることなく自由に生きようと決意した彼が最終的に目指したのは遙か北のアラスカの荒野だった。

主人公は彼が求める本来の意味でのイントゥザワイルドを果たせたのだろうか。と、身も蓋もない言い掛りを冒頭に言います。なぜなら、彼は最後まで客人だったんではないか、という思いが離れないから。あの不思議バスは言わばゲストルームで、人は自然と切り離された存在のままっつう。客人に目一杯好き勝手させ、最後の最後で罠にはめるっていうモチーフが童話で良くあると思うのだけど、この映画はなんかそれに似ている。郷には従うが異人は異人のままで、無作法を止められないままに垂れ流すだけ。例えば、衣食住を得るという根源的な生活描写よりも、暇過ぎるゆえの一人遊びのほうが若干時間配分多い気がする。しかも、暇つぶしの内容が人間社会でやってたそれっていうのは何か悲しい。本末転倒ってのは言いすぎだろうけど。

と、ここまでは単なるたわごとで。以下に、彼の旅について思う。

彼はときおり一人芝居や独白をみせる。それは内側から吐き出すかのように、また場所を問わず、(劇中に何度も)繰り返される。その理由は、ひとつに孤独に耐えるためだろう。だがもうひとつは、過去よりせり出してくる痛みゆえではないか。彼の旅はまるで、彼の中の家族を過去に閉じ込めてリュックに背負っているようだ。当然いつまでも肩にのしかかるし、外装に守られ決して風化しない。固く縛って持ち出した過去は決して変化し得ないということ。だが、それが彼の突き動かしていたものだったというのは言うまでも無く(もちろんすべてではないが)。すなわち「どこへいっても」彼は同じものに支配され続けるということを、彼が自分を客人であると思い知れないことが最も「客人であること」を証明するように、彼自身で無自覚に示してしまう。
彼の一人芝居や独白は、カメラに向けて行われる。あるいは彼とカメラの間の区画された狭い空間に向けて。それは「ただ」そこまでしか拡がらないだけなのか。旅そのものが彼の中の家族を過去に閉じ込めておく行為ならば、その一人芝居や独白は、外に対象を持つはずは無く、漏れ出ただけのそれは拡がる術を持つはずが無い。
一方でカメラが白光を中心に、窮屈を知らないままフレームを忘れて青空を映し出すとき、それは対比としてカメラが主人公を中心に捉えたときの狭々しさを想起させ(つまり一人芝居や独白ときだ)、まるで真逆の開放感を得る。俺の記憶に在るのは、老人と岩場のてっぺんで会話するときの青空と、死に際に見上げる青空だ。そのとき、独白の対象ははじめて外に向けられる。主人公と老人には対話があった。主人公を置いて老人は先に、閉じ込めていた過去を未来に差し出す。やがて彼も。死に際のモノローグは、過去に置いてきた人たちの未来を想像する。
「僕が帰ったら両親はどんな顔するんだろう。」
「僕が出会ったすべての人のその後の人生はどうなっているだろう。」
そのモノローグはもはや閉じ込めた過去についてではない。「過去」は「現在」から切り離されたから「過去」ではなく、「過去」が見つめる視線をすなわち「未来」と呼ぶのだ。映し出された青空は、それだけの映像であれば何ら変哲もないが、主人公と老人の対話に主人公の変化を予感させてくれる。彼の死が「摂理として精悍さ」と「弱者としての惨めさ」を備え、それがまさしく自然の地の(おそらく本来である)重苦しさとしてしめられるはずが、最後に青春映画のようにさらりと吹き抜けていくのは、「どこへいっても」見ることのできる単なる青空の映像が、彼の変化を、彼の視線を、スクリーンに刻み込むからに他ならない。

Happiness only real when shared.(幸せは分かち合った時にだけ現実となる)