『ウォッチメン』

ウォッチメン』 監督:ザック・スナイダー 原作:アラン・ムーア


何年も昔に撮ったカラー写真が(あるいは誰が撮ったかもわからない写真でもいい)、未だ色褪せてなくて鮮明なままだとして、よせばいいのに俺はそいつを気まぐれに視界に入れてしまう。ときとして、そいつは腹立たしい。中に写る誰かではなくて、写真っていうそいつがだ。風化しないそいつがまるで身の程を知らない愚か者にみえて、変わらないっつーその抗いがまったくもって惨めったらしく思えてくる。それは、その写真自身が、とっくに忘れちまってるはずなのに「思い出」ってツラで平然とありつづけるから。

『ウォッチマン』にあるのは、忘れたまま生きることが映画という時間の中で可能であったことだ。忘却したことすらわからないのであれば、それは忘却ではなく最初から何にも無かったことと同じである。忘却には、その記憶が確かに在ったという隣接する記憶あるいは痕跡(外部の記憶)が必要になる。すなわち「忘却の証明」だ。あらゆる記録は、例えば写真/日記/映画は、言うなれば「忘れないとする意志」である。ではその逆、忘れたことの証明として、記録は存在しえるのだろうか。オープニングにおけるミニッツメン誕生から終焉が、まるで「時代」に型押しされ、血の通ったデスマスクとして「歴史」を記録してるかのように、全てを忘れて物悲しく微笑んでいる。輪郭ははっきりと、微笑みは静止したまま。ロールシャッハが叫び、コメディアンが疲弊し、マンハッタンが沈黙する。だが彼らの針は止まったまま。『ウォッチマン』という映画はつまり、「思い出」ってツラをした忘却なんじゃねーのか。

終わることが始まり、彼らがたそがれを歩くとき、終わらせたくなかったものが何であるか思い出せはしない。終わることを失い、ウソが始まるとき、彼らは何を失ったのか思い出せはしない。