死についてメモ

  • 例えば銃弾に倒れ、血を流して地面に好きなだけ吸わせながら空を眺めている。(最後の一服も許してあげよう)。「もう俺は死ぬだろう」そのことをなんとなく確信するかもしれない。だが、投げたボールが着地点に到達する前に、視線がはっきりとボールの運命を見定めるのと同じようには、死にゆく者は自身の「死」を見ることは不可能である。その軌道が確実に「死」に近づいているとしても、おそらくは「死」の決定そのものを永遠に知ることはできないだろう。「死」の体験はないが、着地点の直前に意識が「飛ぶ」のか、あるいは着地が見えたとしてもそれが「死」であると知る術はないのだ。(あのミギーでさえ圧倒的な孤独感に「死」の予感をみたが、結局死ななかったのだし)。
  • 少年マンガにおいて、死んだ者がしばしば復活することに何の疑問も挟まれない。そんな背景があってか荒木飛呂彦は「こいつは完全に死んだから、後で生き返ったとか実は生きてたとかは絶対にありえないよー」ってことをわざわざ伝えるために魂を雲(?)状にして飛ばしたと聞いたことがある。

それと関係するのかはわからないが、映画における「死」の描写に、そこに紛う事無く「死」が在ったと感じれたことは無い気がする。俺は殺人を見ている、死体も見ている、だが間の「死」が見えないのだ。脳ミソを撒き散らされるような「即死」は、はたして「殺し」と「死」が同時にやって来ることだろうか。目を閉じカクッとなればそれは「死」の訪れだろうか。もちろん医学的な死の決定点はどこかという話ではなく、言うなればミギーの感じた「死」の予感がどこで着地するのかということを、俺たちはスクリーンに殺人を目撃したとしても、あるいは死にゆく者をまじまじと観察したとしても、決して見ることはできないのではないかということ。「殺し」は在る、「死んでる」も在る、だが「死んだ」その瞬間は無い。それは常に画面から隠れてて、何も告げぬまま「死んでる」に移行している。この前観た『バーン・アフター・リーディング』が気持ちいいくらい詰まんなかったけど、唯一ハッとした場面があって、ある一室でブラッド・ピットが眉間を撃たれて死んじゃうってとこ。撃ったジョージ・クルーニーが慌てて部屋から出るけど、呼吸を整えてから再度部屋に入るのだ。おそらくは確認の為に。一度目の室内では「殺し」の実行が銃声と眉間の穴と飛び散る血によってはっきりとカメラに目撃される。二度目の室内では動かないブラッド・ピットが、他の何でもなくただ「死体」として現前する。そう、まるで「死」の瞬間は見えないということを象徴させるかのようなシーンである。