『母なる証明』

母なる証明』 監督:ポン・ジュノ 出演:ウォンビン

(ネタバレ)

お互いは関係し続ける、干渉し続けなければならないというのは、その自発性を意識しないまま根拠無く信じられている。母の「母子の絆」という牢獄は、その不自由で幸福な区画された壁の中は、「喪失」でしかそれを否定できない。だが「喪失」あるいは「崩壊」でしかないということは、存在したということを証明してしまう。手元には無いがどこかには絶対のものとして在るのだと、思い上がらせてしまう。
この映画が見せるのは、それはまったくの思い違いであるということだ。いや、思い違いであるという場所に連れていかせられるのだ。ぽんと背中を押され、よろめく母は壁にぶち当たらない。何の障害もなく、何の感触もなく、ふと広い場所に出てしまう。壁であったはずの境界を踏み越えて。緯度も経度も善も悪も生も死も有も無も、すべてがなだらかに引き潰されたかのように起伏なくゆるやかに伸びていく大地で、すがり付くものも見当たらず取り残されたように所在無く立たされる。母が見ている風景とは何か。たとえば「ゴルフボールより血痕」という言葉は、警察の無能さを強調する以上に、周囲の彼らは母子にある真実を絶対にわかりはしないだろうという絶望以上に、真相や真実といったものが(あるいは本質と呼ばれるものが)その他のすべてと優劣なく横たわっている・同列に埋もれてしまっていることの訪れを(終盤でもはやダメ押し気味に)告げているのである。
一方で息子は、なぜ「母子」という窮屈な部屋に依存し続けるのだろうか。単に自活ができないからだけでなく、彼にはその場所から離れる必要をまったく感じていないのかもしれない。母に依存し続けること、母から自由になることに大きな違いはない。すべてが起伏なく続いているのに、自由に動き回ることと、ここでじっと世界を見渡していることと、どんな違いがあるのだろうか。
プロット的に息子のウォンビンが『羊たちの沈黙』のレクターで、母親がクラリスに思えてしまったのだが、これは単なる思い付き以上に重要なことかもしれない。クラリスが見た世界とレクターが見た世界を、いま俺が映画を通して見ることができるのであれば、それは『羊たちの沈黙』では無く『母なる証明』なのだという気がする。それは時代が変わったからでもなく、あのときから何かを失ってしまったからでもなく、たとえ何ら変質しなくともありえるのだろう。世界それ自体が貶められているのだ。かつて在ったものは、ここにも変わりなく在る。だがそれは、クラリスのときのように彼女にとっての起伏たり得ないし、障害としての感触たり得ないのである。レクターがレクターであることの区別を世界は許しはしないだろう。すべては「ゴルフボールより血痕」ほどの差異でしかない。国籍も人種も差別も格差も貧困も犯罪も殺人も時代すらも、凄惨であることも幸福であることも、世界を区画しない。それらは色彩を隔てない。母体はすでに貶められている。関係を知るということの高低を方位を位置を距離を区別することができない。世界を踏みしめ奮い立つ何かはないし、すべてはなだらかに轢き殺されている。
偽りの記憶で生きることと本当の記憶で生きることの違いを彼(息子)の中に見出すことはできない。彼にとってそれは大差の無いことであるし、何が真相か知っている我々もその切り替わりが曖昧に続いていく彼の見る世界を知ることはできないのである。断絶の中に立ち止まり続けなければならない彼の見る世界を。だけども、俺の足もとから始まって映画を通過して接続できる世界というのは、それに近い風景なのかも知れない。俺が見た世界とお前が見た世界が、交差点で通行人と肩がこすれる程度の刹那で重なるとき、その瞬間の火花こそが唯一認識できる母体としての世界ではないか。そう、誰かの見た世界と誰かの見た世界と誰かの見た世界のうつろな綱渡りこそが、いまかろうじて連続性を保てる唯一「映画である」ことの手段ではないのか。