デンゼルの不思議

デジャヴ [DVD]

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トニー・スコットのここ3作の流れに不思議な印象を受ける。いずれの主人公もデンゼル・ワシントンであるが、主人公は、作品ごとにだんだん「動かなくなって」いく。『デジャヴ』では、主人公はまさにアクションによって本来不可逆であるものに突き進んでいく。デンゼルは車で過去にいる犯人を追いかけるのだが、ある装置によって、片方の目は過去(数日前)の映像を見て犯人を追跡しており、現在を見ているもう片方(肉眼のほう)は、高速道路を逆走する。一見むちゃくちゃである。理論としての過去、逆方向に進んだ先の場所というより、過去が歴然と過去である場所。僕らにすでに「起きてしまった」ことの場所。それを変えるということはどういうことだろうか。高速道路の暴走が何であるかと言えば、そこには過去への信頼があり、現在へのまっすぐな意志があった。常に過去が先にあるように、すべては後悔から始まる。もし現在のこの意志を過去に届けることが出来たならば、それを受け取った過去が現在の私に追いついたとき、私はそれを信じることができるのだろうか。この言葉を、あなたの進行方向に引き伸ばしてほしい。それこそが未来を想像することではないか。高速道路の逆走をもう一度言うなれば、そこには今への信頼があり、未来への確かな意志があったのだ。
サブウェイ123 激突』ではどうだろう。デンゼルはトラボルタ(犯人のボス)を追う。一般市民の彼にトラボルタを追う理由は無い。彼を突き立てるものは何なのか。トラボルタに追いつく場面。デンゼルは線路を横切りトラボルタに近づこうとするが、同じタイミングで電車が向かってくる。ちょっとためらった後、電車が来る前にひょいと線路をこえる。一瞬我に返ってこのまま進む理由を失った時にも、人はそのまま歩みを止めない。そこでは『デジャヴ』のような切迫も熱情も無い、言わば普通の日常の動作である。『アンストッパブル』では、更に「到達」すらも為されないままである。暴走列車を止めようと、彼は最後部から貨物の上を渡って運転席に向かおうとする。だが、やがて行き止るのだ。それ以上は進めなくなる。彼は運転席にたどり着けない。そこにはTV局のカメラによって立ち止まる彼の姿が映し出されるだけであった。
『デジャヴ』で在ったデンゼルのそれは、デンゼル本体のみではなく、一部を別の何かへ「外部化」したのかもしれない。横切る電車。踏み越えられるレール。あるいは、それは誰かに託され、いつか振り返ったときにやっと世代交代と呼ばれるような類であったと認識されるようなささやかさで、下の世代の誰かがそれを引き受けたのかもしれない。わからないが、いずれにせよ『デジャヴ』で感じたデンゼルのそれは、『サブウェイ123 激突』『アンストッパブル』においても少しも後退していないと思われた。

デンゼルは、作品ごとにだんだん「動かなくなって」いく。けれども『デジャヴ』も後2作も、デンゼルは相変わらずである。そこには信頼があり、未来への意志があったのかはあなたに確かめてほしいのだが、もしかしたらアクションを置いたままトニスコは映画をすごいところへ連れていくかもしれない。