『トウキョウソナタ』


トウキョウソナタ』 監督:黒沢清

誰も帰らなかった日の翌朝、それぞれが「家に帰ってくる」シーンがとても印象に残っているけど、単純に感動的とは言えなくてずっと引きずっていた。この映画について語るとき、思わず「家族の崩壊と再生」と、口を衝いて出てしまいそうになる。そんなとき、そこにはまだ「あるべき家族像」というものがほのかな期待を内に灯して、先の言葉を後押ししてる様な気がする。いまある状態を「崩壊」とするならば、あるべき形があり、希望をみるだろう。登場人物の視線の先を勝手に想像するだろう。暗闇に光を見るだろう。だがそれはすべておぼろげなものだ。登場人物が自らの目的地を自らで設定したに過ぎない「その先」は、自作自演の幻は、いつの時代も終わりと始まりをリバースさせてきたはずだ。いつだって視線は、本当はないのかもしれない「その先」を向いていたんじゃないか。

「目標に向かう力に動かされて、いっさいの知的判断を経ずになされる直接的行動」という意味の短絡反応という言葉があるが、最近の映画をみると、その意味が反転してしまったのではないか、と思えてくる。『トウキョウソナタ』も然り。つまり「いっさいの知的判断を経ずになされる直接的行動が、目標に向かう力を生む」ということ。ただしその「目標に向かう力」とは「運命」という言葉と近似であるかもしれない。たとえば『ダークナイト』と『ミスト』は「眼前の選択肢に短絡的決断を迫られ続ける連続の結果として、超越的な意志を見る」という同じ構造を持っている。バットマンは「ダークナイト」になることを自ら選び取った。では『ミスト』の主人公は?またポニョと『WALL・E』の共通性もここから見えてくるかもしれない。また『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公や『ノーカントリー』の殺し屋がなぜあんなにも圧倒的だったのかも。

トウキョウソナタ』で例えば、父親が箸をつけるまでじっと待つというシーンは、可笑しさをこえてゾッとすらしたんだけど、そういった「なごり」と共に、家族のそれぞれは(何故一緒にいるのかその答えをすでに失っていることを自覚しながらも)家族であることの最終ラインだけは死守しようとしているように思えた。「かつては家族であった」という幻の記憶をトレースして。「あるべき家族像」という「その先」を模倣して。
WALL・E』で、ウォーリーの家が出てくるけど、そこにはウォーリーの見つけてきたあらゆるガラクタ=コレクションがある。外の世界とウォーリーの家にははっきりと境界があり、つまりあの家はウォーリーの記憶そのものだ。ガラクタを持ち帰れば、収納には物が増える。記憶は拡張される。手を繋ぐことに何の意味があるのか知らなくても、手を繋ぐ行為は記憶にある。ではウォーリーの「ガラクタを収集する」=「記憶を持つ」というシンプルな「ただそれだけ」は何故あんなにも感動的だったのだろうか。それは、記憶を振り返る行為が、すなわち触れる/見ることで実行されるからだ。疑いようのない確かな実感をもった行為であるからだ。ロボットは、おぼろげな「その先」を見ようとはしない。ウォーリーはただ記憶によって動く。だがその記憶は確かに存在する。『トウキョウソナタ』の終盤、それぞれが家に帰ってくること。その記憶も、おぼろげな幻だったおだろうか。

トウキョウソナタ』の後半は逃走で始まる。彼らは逃走し、やがて行き止まった。だがそれは「どこかへ」行き切れなかったわけではない。彼らは、夜の海を導いてくれるその先のかすかな光を自らで吹き消しに行ったのではないか。「どこかへ」というおぼろげな光を。光を消した後には、当然のように死と孤独がある。それは、ウォーリーの居たひとりぼっちの世界、ガラクタ=誰かの思い出が、ガラクタであるということですら認識されることのない孤独の世界にとても似ていた。たとえば小泉今日子が空に差し出す両手は、霞を突き破っていくようにどこにも何にも突き当たらない、やがて失速しどこかに支えられて静止することない、永遠に衛星軌道を繰り返す圧倒的な孤独を象徴する。たとえば父親が繰り返し遭遇する「あなたは何ができますか」という言葉は、今度は自分自身が霞になったようにどこにも引っかかることなく見事に体を貫通していった。答える術をもてない、それは断絶だった。
彼らは逃走し、やがて行き止まった。死の地点から振り返ると(蘇生、再生、復活…といった言葉でもいいが)、そこには「崩壊」「死」の対比としての肯定はなく、再生のイメージに無条件に付加される前向きさは、彼らの帰路には微塵も見えなかった。つまり希望は見えなかった。だけれど、(外の世界は無で)無の中を自らの記憶によってのみ動くことができる、そして行動のみが無から記憶を持ち帰るという、そんなウォーリーのように、逃走の跡だけは確かに存在していたのだ。それはただ、彼らが家族であることに最も近い短絡反応。唯一の家族の行動である。

振り返れば帰路ははっきりとある。