『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド (Blu-ray Disc)

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド (Blu-ray Disc)

パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ。僕のうっすら記憶によれば『1』はただのアトラクション映画だった気がするんだけど、昨日『2』を観たとき、僕はジャック・スパロウに対して予想外の思いを抱くこととなった。思い返せば『1』もそうなるのかなぁ。そして最終章。海賊が、自らの秩序を取り戻す話。そこには掟があり、誰がが引き受けなければならないということ。
その始まりが『2』で、すなわちそれは「すべての登場人物が、ジャック・スパロウが導いてきたものから、選択せざるをえない」という始まりである。



パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』 監督:ゴア・ヴァービンスキー 製作:ジェリー・ブラッカイマー 出演:ジョニー・デップ オーランド・ブルーム キーラ・ナイトレイ ジェフリー・ラッシュ


冒険を求めたとき、海に出るのは何故だろう?もちろんそれは海の向こうに「未知」=「物語」があるからである。でもそれだけじゃない。思うにその一番の理由は、「長いトンネルを抜けると雪国であった」のようなスイッチをわざわざこしらえなくていいからなんじゃないだろうか。深い霧の中、甲板の上で揺られてるだけのシーンに毎度ワクワクする。それは常に何かの始まり。

だけどもそれは「かつての」話。

そう、この映画においても霧の向こうは「かつての」物語ばかり。「地図の空白を埋める」時代に作られた海賊物語から、「埋められた地図から何かを選び取る」時代に作られる海賊物語へ。もう「未知」へ向けられる眼差しなど存在しないのだ。 ゆえにジャック・スパロウが誕生した、と僕は思う。

そもそも『2』において、オーランド・ブルームキーラ・ナイトレイが選び取るものって、すべてジャック・スパロウが持ってきたものの中からでしょ。それはつまり、『パイレーツ〜』世界と登場人物の間にジャック・スパロウがいるってことで、それが現代に作られる海賊物語としてすごく正しいと思うのよ。世界の入り口がジャック・スパロウってことじゃなく、常に海賊の世界はジャック・スパロウを通してしか見えないということ。
ものすごくシビアな現状認識に基づいて作られる「物語」。それが映画のタフさになってて、僕は『3』をとても頼もしく観れた。「真に価値あるものはどこにあるんだ!」という嘆きよりも、「不毛から何かを選択させられている」のほうが現状認識として正しいんではないか。たしかにこの映画で繰り広げられるすべては、どーでもいい。でも僕らの世界もまた、「どーでもいい」の中からしかすべてを選べないんじゃないのか。『1』『2』のパロディから、『3』の「物語」へ。それはまるで『1』と『2』のジャック・スパロウが『3』への壮大なスイッチになっているかのようだ。

『3』を観終わった今だから言えるんだけど、『1』も『2』もジャック・スパロウの後ろには常に海賊の秩序が見え隠れしていた。そして『3』ではジャック・スパロウが海賊の秩序そのものであると堂々と告げてしまった。父の時代の秩序の「通し方」から、息子の時代の秩序の「通し方」へ。内容は変わらないが、貫き方はまるで変わった。それを「終わった」とみるか「まだまだ、おもしろきかな」と思うか。あなたはどっちだろう?