『ダークナイト』

俺はただジョーカーはセクシーと言いたかっただけ。

ダークナイト』 監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベール ヒース・レジャー アーロン・エッカート


たとえば、ジョーカーの迫る選択をシリアスに受け止めてしまうことが、至極当然にこの映画について語るべきこととして直結しているような気がするが、本当にそうだろうか。
この映画は、バットマンとジョーカー、ダークナイトと光の騎士、いろいろな「対」を見て取れるけど、一番俺が「対」を感じたのがハービー・デントとジョーカーであった。この2人はまさしくバットマンの息子である。そもそもジョーカーは混乱の象徴たりえてるかもしれないが、絶対悪というにはその悪意の矛先はバットマンに依り過ぎているような。というか完全に対バットマンである。ジョーカーの銀行強盗以降の犯罪というのは、街の人々に「見られる」ことで成立している。そして何故街の人々がその犯罪を「見せ付けられなければならない」のかは、バットマンが(街の人々の中に)存在するから他ならないのだ。ジョーカーが塗りかえる世界というのは、バットマンが存在する世界を前提にしたもの。バットマンを死すら生ぬるいまでに追い詰めるジョーカーの無敵さというのは、ダークフォースの脅威というより、どちらかというと子供の親に対するアンフェアな無敵さに近いと、俺は思ったのだ。そしてその子としての愛嬌こそがジョーカーの魅力ではないかとも。
ハービー・デントとジョーカーは、バットマンの子である。子が親に憧れるものとは何だ?親のつくる秩序にではない。親が秩序を保つ「影響力」にである。子のすべてが、親の創り上げた世界に憧れるとは限らない。もしそうであればバットマンはこんなにも過酷な運命を背負わなくて済んだはずだ。それは偽バットマンのように、ミニチュアの世界しかつくれないから。フリークが生むのは、ミニチュアのフリークではない。まったく新しい脅威である。ハービー・デントは、世界を変えようとするその行使の仕方、もっと言えば正義の貫き方を「模倣」する。ジョーカーは、世界を塗り変えること、個人が世界を塗り変えてしまえること、その事実を「模倣」するのである。
二人には共通点がある。ひとつは、憧れをまったく隠しはしないこと。ハービー・デントはバットマン愛を堂々と公言する。バットマン譲りの(危険なほどの)真っ直ぐさと彼独自の陽性の輝き、それらが重なる場所の儚さこそがハービー・デントの魅力であったように、ジョーカーは純粋過ぎる愛でもってバットマンにぶつかっていくからこそ、数ある悪の体現者の中で特異な魅力を放っていたのではないだろうか。
そしてもうひとつの共通点、二人は、バットマンのいない世界を望まない、ということである。親がどう思おうと関係なしに、子はバットマンがいなくなる世界になることを阻止したのだ。心身ともにヘトヘトのバットマンは内心辞めたがっていたようにも見える。ハービー・デントに自らの使命を託そうとしたのは、バットマンがもはやリミットで、背負うものをを全部おっかぶせようしたんではないだろうかと。でも子は、親が消えてしまうことを嫌ったのだ。ではジョーカーはどうか。彼はハッキリと言っている。「バットマンがいない世界はつまらない」と。
この映画の「重さ」は、ジョーカーの迫る選択が、人々の足場を根底から引っぺがすような、悪魔級のエグさをもつからではない。(だって、それ突きつけられても「まあ、そうだろうな」としか言えないじゃん。)親が存在するゆえに、子が互いを憎み合うという、きわめて身近な邪悪さが、運命としてあるからである。子は、もう一方の子を不能にし(正義の象徴たり得なくなる)、親にその子を殺させるのだ。結局は部外者でしかない*1バットマンを、ダークナイトとして、ゴッサムの街に、現実に、完璧に結い付けて完成させたのは、何よりも子であるジョーカーなのだ。望まれない子は、親に試練を与える。子の死を背負いし「もはや降りることを許されない」バットマンこそが、ジョーカーの考える真のバットマンである。
夢を持って、だだひとり世界と対峙する。そうゆう意味ではバットマンもジョーカーも同じ魅力があるかもしれない。だがバットマンは自らの傷をバットスーツで隠す。残念ながら変化を黒で覆い隠すバットマンに色気はない。メイクが徐々に剥がれ落ちていくジョーカーは、「変化」をもつ。すなわち色気だ。世界に立ち向かいその姿を変えていく、その変容こそセクシャルな魅力を放つのだ。警察署を爆破し煙の中ひとり佇むジョーカーや、パトカーの窓から顔を出して風を浴びるジョーカーに、本気でゾクッとしたよ。マジ。取調室の壁にもたれ座るジョーカーはとても愛くるしかったのにー!!!

*1:これは、前作含め2回ツッコまれている。