『エイリアン』

『エイリアン』 監督:リドリー・スコット 出演:シガニー・ウィーバー 



唐突にであるが、しかしそれは「遭遇」でなければならない。
遭遇とは不意に何かに出会ってしまうことだろうが、とあなたは言う。そう、遭遇は唐突であると。だが、唐突に何かが立ち現れることと、それが「遭遇」であることとの間には、それとは違う何かが入り込むような、わずかな揺らぎがあるのではないか。
境界はある。確かにある。一歩踏み出せば境界の向こうだ。だが、一歩踏み出せばそこに行けるのか「確かな予感」はない。境界を一歩またいで踏みしめるその土がはたして境界の向こうなのかは絶えず「揺らいでいる」。そもそも、映画とはそれを「揺らがせて」きたジャンルではないのか。それは、映画の中に遭遇は容易に現れえないことの逆説でもある。(映画が我々の前に立ち塞がることはない。映像をつないでいるのは何よりも今スクリーンを観ている私なのだから。)

『エイリアン』とはまさに遭遇の映画である。
暗闇に潜むエイリアンを、我々が目を凝らし発見するのではない。実はエイリアンの登場は、闇に「潜んで」はない。まず暗闇だけがあり、境界を越えて、唐突にエイリアンは現出する。それはまるで、暗闇という被膜を破り出てきたかのように、唐突と遭遇が鋭く貫かれている。揺るぎなく境界は越えられる。
今回観て気づいたのだが、エイリアンの1作目においては、遭遇「後」の描写がまったくないのだ(どうも2作目3作目の記憶が強くあるなあ)。遭遇後の惨殺は映らない。それどころかエイリアンに遭遇後、追いかけられるシーンも無いのである。すなわち、遭遇したらTHE ENDである。(リプリーは最後、境界をつくって=遭遇「しなかった」ことにして、エイリアンを撃退している。)
おそらくこの映画は、エイリアンが初めてその姿を現した胸を突き破って生まれるシーンに象徴されるように、遭遇=突き破ってくるというイメージで統一されている。別の言い方をすれば、常に2つの間は薄い膜で遮断されているというモチーフがある。または、境界(薄膜)があり、それはどちらかの意志によって簡単に越えられる(破られる)ことか。すなわちすべては遭遇されると決定している。暗闇を引き裂いて現れる何かと「遭遇」しなければならないということを、我々は、「確かな予感」を持たされ、条件付けされてしまうのかもしれない。
映画の中で、遭遇の破膜イメージは絶えず繰り返される。ハッチを開いて仲間を受け入れる(恐怖・不安が入り込む)。ハッチを開いてエイリアンを射出する(恐怖・不安を取り除く)。船内と宇宙の間を隔てている壁は、外の世界にとっても、その場にいる彼らにとっても、唐突に何かが起きると、何かに遭遇するかもしれないと、「確かな予感」を抱えるに充分な薄さでしか遮断されていない*1。彼らを乗せる船は宇宙に溶け込まない、混じらない。薄い膜に守られたまま、外部を遮断したまま、唐突な破膜を予感させたまま、ただじっと遭遇を待ち続けるのだ。

*1:強酸性の体液が船内を溶かしたときの焦りっぷりとかステキな名シーンだよねえ