『ノーカントリー』


砂漠から大金だけではない何かを持ち帰ろうとした男は、誰にも見られることなく死んでしまった。彼を救おうとした保安官は、足跡を追うも彼に辿り着くことはなかった。その姿を一度も見ることもなく、結局は徒労に終わった。殺し屋アントン・シガーについても、俺が感じたのは「徒労」であった。


ノーカントリー』 監督:コーエン兄弟 出演:ハビエル・バルデム

彼の理不尽なルールは、「自分ルール」というにはあまりにも「理解されない」という認識が欠けているし、それが「押し付け」であるという自覚がまったくない。また彼の苛立ちは、従ってくれないからという駄々っ子のような一方的さではなく、正しいはずの計算式なのに永久に解が合わないような相容れなさからきている。それはまるで世界から「正常な」答えが返ってこないというような、当然の振る舞いとして彼は「まっとうな」苛立ちをふりまくのだ。
かつての狂人たちは自分が特異であるという自覚を持っていた。常識のもとでは殺されてしまうからこそ、自らのルールに従わざるをえなかった「例外」であると。アントン・シガーにそれを見ることはない。アントン・シガーに「例外」の自覚はない。例えば彼らの「例外」が折れるとき、彼らの行為が「徒労」に終わるとき、それは常に決闘の後であったはずだ。いやそれは「徒労」とは言えないだろう。運命に抗がった先の結末を見つめて死ねるのだから。それは「結果」で、すなわち世界からの回答があったと。だが、アントン・シガーは最後まで、混沌から秩序をひねり出そうともがいて、世界に終わらない問いを続けている。対峙する常識(レスポンス)はなく、目指すべき秩序の地平は一向に見当たらない。それは果たされることのない「徒労」で終わり、いや終わることなく平穏な日常として「疲弊」し続けるのだろうか。
吉良吉影は静かに暮せない。だからこそ吉良吉影は静かに暮したい。かつて吉良吉影のような殺人鬼たちは、動機の上にその存在を位置することができた。つまり意志は選択され、世界と折衝するのは彼らの存在ではなくその意志であった。一方アントン・シガーは、あるいはどこかの殺人鬼が現在に生れ落ちなければならないのであれば、彼らは動機の上に立てないだろう。否応なく世界と私は衝突している。だが意志は見つからない。緩衝しうる確かな秩序を持ち得ない。
物語とは、秩序がフリーズした社会≪日常≫に混沌≪非日常≫を持ち込み、再び秩序を活性化させる行為である。それは、男から砂漠から持ち帰ろうとした大金以外の「何か」であり、保安官が救いたかったその男の命とはまた別の「何か」である。この映画の結末でそれぞれの願いは遂に叶うことはなかったように、物語は不在のままだ。
殺し屋アントン・シガーは、経験値ゼロで混沌の中に秩序を追う模索者であり、赤子のまま自活を強いられた不遇の男である。
最後、アントン・シガーが去っていく町の風景は、僕ら日本人でも非常に馴染みのあるものだ。ここで気の利いた映画が出てこないのが残念だけど、新聞配達人が家の芝生に新聞をほいほい投げ込んでいくような、それを歯磨きしながらパジャマ姿のパパが拾うような、少年がチャリを玄関に乗り投げて勢いよく友達の家のチャイムを押すような、映画『ビッグ』で大人から子供に戻ったトム・ハンクスが(セックスや仕事の楽しさを知ってしまったのに、あのころの気持ちはもう戻らないのに)それでも親友と共に歩いてくねん!のラストシーンのような、それは平穏な日常の光景であったはずだ。その場所に殺し屋が去っていくというのは、かつてであれば、杜王町的不穏さ・恐怖を意味していたのだろう。だがこの映画の徒労感は、まさに町に消えるアントン・シガーの後姿にこそ見たのである。男が大金と出会う冒頭の砂漠と、アントン・シガーが去っていくラストの町の光景は、混沌を持ち込み秩序の中に消えていくアウトラインは、それがいかにも物語をなぞっていたかのように見える。男が取るべきだった結末、平穏な日常に帰ることはアントン・シガーに「代行」され、本人は死んでしまった。そう考えるとすれば、アントン・シガーもまた選択されるべき意志を、冒頭に男に「代行」させたのではないだろうか。つまり本当は、何も持ち込めなかったし帰るべき秩序はなかった、ということ。彼らは疲弊しながらそれでも不在のはずの物語をなぞるのだ。