2008年ベスト

『トウキョウソナタ』


トウキョウソナタ』 監督:黒沢清

誰も帰らなかった日の翌朝、それぞれが「家に帰ってくる」シーンがとても印象に残っているけど、単純に感動的とは言えなくてずっと引きずっていた。この映画について語るとき、思わず「家族の崩壊と再生」と、口を衝いて出てしまいそうになる。そんなとき、そこにはまだ「あるべき家族像」というものがほのかな期待を内に灯して、先の言葉を後押ししてる様な気がする。いまある状態を「崩壊」とするならば、あるべき形があり、希望をみるだろう。登場人物の視線の先を勝手に想像するだろう。暗闇に光を見るだろう。だがそれはすべておぼろげなものだ。登場人物が自らの目的地を自らで設定したに過ぎない「その先」は、自作自演の幻は、いつの時代も終わりと始まりをリバースさせてきたはずだ。いつだって視線は、本当はないのかもしれない「その先」を向いていたんじゃないか。

「目標に向かう力に動かされて、いっさいの知的判断を経ずになされる直接的行動」という意味の短絡反応という言葉があるが、最近の映画をみると、その意味が反転してしまったのではないか、と思えてくる。『トウキョウソナタ』も然り。つまり「いっさいの知的判断を経ずになされる直接的行動が、目標に向かう力を生む」ということ。ただしその「目標に向かう力」とは「運命」という言葉と近似であるかもしれない。たとえば『ダークナイト』と『ミスト』は「眼前の選択肢に短絡的決断を迫られ続ける連続の結果として、超越的な意志を見る」という同じ構造を持っている。バットマンは「ダークナイト」になることを自ら選び取った。では『ミスト』の主人公は?またポニョと『WALL・E』の共通性もここから見えてくるかもしれない。また『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公や『ノーカントリー』の殺し屋がなぜあんなにも圧倒的だったのかも。

トウキョウソナタ』で例えば、父親が箸をつけるまでじっと待つというシーンは、可笑しさをこえてゾッとすらしたんだけど、そういった「なごり」と共に、家族のそれぞれは(何故一緒にいるのかその答えをすでに失っていることを自覚しながらも)家族であることの最終ラインだけは死守しようとしているように思えた。「かつては家族であった」という幻の記憶をトレースして。「あるべき家族像」という「その先」を模倣して。
WALL・E』で、ウォーリーの家が出てくるけど、そこにはウォーリーの見つけてきたあらゆるガラクタ=コレクションがある。外の世界とウォーリーの家にははっきりと境界があり、つまりあの家はウォーリーの記憶そのものだ。ガラクタを持ち帰れば、収納には物が増える。記憶は拡張される。手を繋ぐことに何の意味があるのか知らなくても、手を繋ぐ行為は記憶にある。ではウォーリーの「ガラクタを収集する」=「記憶を持つ」というシンプルな「ただそれだけ」は何故あんなにも感動的だったのだろうか。それは、記憶を振り返る行為が、すなわち触れる/見ることで実行されるからだ。疑いようのない確かな実感をもった行為であるからだ。ロボットは、おぼろげな「その先」を見ようとはしない。ウォーリーはただ記憶によって動く。だがその記憶は確かに存在する。『トウキョウソナタ』の終盤、それぞれが家に帰ってくること。その記憶も、おぼろげな幻だったおだろうか。

トウキョウソナタ』の後半は逃走で始まる。彼らは逃走し、やがて行き止まった。だがそれは「どこかへ」行き切れなかったわけではない。彼らは、夜の海を導いてくれるその先のかすかな光を自らで吹き消しに行ったのではないか。「どこかへ」というおぼろげな光を。光を消した後には、当然のように死と孤独がある。それは、ウォーリーの居たひとりぼっちの世界、ガラクタ=誰かの思い出が、ガラクタであるということですら認識されることのない孤独の世界にとても似ていた。たとえば小泉今日子が空に差し出す両手は、霞を突き破っていくようにどこにも何にも突き当たらない、やがて失速しどこかに支えられて静止することない、永遠に衛星軌道を繰り返す圧倒的な孤独を象徴する。たとえば父親が繰り返し遭遇する「あなたは何ができますか」という言葉は、今度は自分自身が霞になったようにどこにも引っかかることなく見事に体を貫通していった。答える術をもてない、それは断絶だった。
彼らは逃走し、やがて行き止まった。死の地点から振り返ると(蘇生、再生、復活…といった言葉でもいいが)、そこには「崩壊」「死」の対比としての肯定はなく、再生のイメージに無条件に付加される前向きさは、彼らの帰路には微塵も見えなかった。つまり希望は見えなかった。だけれど、(外の世界は無で)無の中を自らの記憶によってのみ動くことができる、そして行動のみが無から記憶を持ち帰るという、そんなウォーリーのように、逃走の跡だけは確かに存在していたのだ。それはただ、彼らが家族であることに最も近い短絡反応。唯一の家族の行動である。

振り返れば帰路ははっきりとある。

ゾンビ

お勉強の為に観てんじゃねえよと言いたい。突然だが言いたい。たとえば平成生まれのヤツが、過去の名画を鑑賞して、批評することで、その映画に何か新しい価値を与えたことはあるだろうか。その解釈が、僕らの記憶に眠る映画を蘇生させ、新鮮な空気を吸わせたことはあるのだろうか。語り尽くされてきたものに対し、僕らは「ゾンビはゾンビ」だとしか言ってこなかったんではないのか。
過去の映画は、改変不可の「資料」ではない。永遠を与えられた映画の安住を妨げたい。やつらの墓石を破壊したい。過去の映画を「お勉強」とか言ってるヤツは墓石に書いてあることしか見てねえんじゃねーのか。その下に眠る、みすぼらしい死体を見ろ。お前の目には美女が映るかもしんねーし、棺の中は空っぽかもしれない。もしかしたら輪切りにされたお前自身が映るかもしれない。ヌケサクだ。
もちろんこれは自分自身に言っている。
ネットで批評を読むような僕にとって、過去の名画の批評があまり見当たらないというのは、渇きを癒せないという意味で死活である。なぜかマニアックな映画のレヴューはあるのに、amazonレヴューではどっかのオッサンがちょいとしたどっかの知識をひけらかしているだけだというのに。スーパーマリオよりも先にGTAをプレイする世代のガキの『ゴッドファーザー』評は見たことが無いのは、何故だ。
超偉大な名作となると、知らず知らずのうちに「観るポイント」というのを刷り込まれている。僕と同じ20代でも高校のときからいろんな映画を観漁ってるような人はもっとじゃなかろか。多くの批評が、その「観るポイント」と自分との差異、もしくは今の映画との差異を、基準に語ろうとする。それは結構。結構ではあるが、その映画が過去への従属から解き放たれる事は無い。それは作り手にも言えるでしょう。世の中にゾンビが増えるだけで、出生率が下がり続けるだけです。僕は親がモンスターの、学級を絶賛崩壊させ中の、ゲーム脳のあなたに期待している。あなたのゆとりレヴューに期待している。

『エイリアン』

『エイリアン』 監督:リドリー・スコット 出演:シガニー・ウィーバー 



唐突にであるが、しかしそれは「遭遇」でなければならない。
遭遇とは不意に何かに出会ってしまうことだろうが、とあなたは言う。そう、遭遇は唐突であると。だが、唐突に何かが立ち現れることと、それが「遭遇」であることとの間には、それとは違う何かが入り込むような、わずかな揺らぎがあるのではないか。
境界はある。確かにある。一歩踏み出せば境界の向こうだ。だが、一歩踏み出せばそこに行けるのか「確かな予感」はない。境界を一歩またいで踏みしめるその土がはたして境界の向こうなのかは絶えず「揺らいでいる」。そもそも、映画とはそれを「揺らがせて」きたジャンルではないのか。それは、映画の中に遭遇は容易に現れえないことの逆説でもある。(映画が我々の前に立ち塞がることはない。映像をつないでいるのは何よりも今スクリーンを観ている私なのだから。)

『エイリアン』とはまさに遭遇の映画である。
暗闇に潜むエイリアンを、我々が目を凝らし発見するのではない。実はエイリアンの登場は、闇に「潜んで」はない。まず暗闇だけがあり、境界を越えて、唐突にエイリアンは現出する。それはまるで、暗闇という被膜を破り出てきたかのように、唐突と遭遇が鋭く貫かれている。揺るぎなく境界は越えられる。
今回観て気づいたのだが、エイリアンの1作目においては、遭遇「後」の描写がまったくないのだ(どうも2作目3作目の記憶が強くあるなあ)。遭遇後の惨殺は映らない。それどころかエイリアンに遭遇後、追いかけられるシーンも無いのである。すなわち、遭遇したらTHE ENDである。(リプリーは最後、境界をつくって=遭遇「しなかった」ことにして、エイリアンを撃退している。)
おそらくこの映画は、エイリアンが初めてその姿を現した胸を突き破って生まれるシーンに象徴されるように、遭遇=突き破ってくるというイメージで統一されている。別の言い方をすれば、常に2つの間は薄い膜で遮断されているというモチーフがある。または、境界(薄膜)があり、それはどちらかの意志によって簡単に越えられる(破られる)ことか。すなわちすべては遭遇されると決定している。暗闇を引き裂いて現れる何かと「遭遇」しなければならないということを、我々は、「確かな予感」を持たされ、条件付けされてしまうのかもしれない。
映画の中で、遭遇の破膜イメージは絶えず繰り返される。ハッチを開いて仲間を受け入れる(恐怖・不安が入り込む)。ハッチを開いてエイリアンを射出する(恐怖・不安を取り除く)。船内と宇宙の間を隔てている壁は、外の世界にとっても、その場にいる彼らにとっても、唐突に何かが起きると、何かに遭遇するかもしれないと、「確かな予感」を抱えるに充分な薄さでしか遮断されていない*1。彼らを乗せる船は宇宙に溶け込まない、混じらない。薄い膜に守られたまま、外部を遮断したまま、唐突な破膜を予感させたまま、ただじっと遭遇を待ち続けるのだ。

*1:強酸性の体液が船内を溶かしたときの焦りっぷりとかステキな名シーンだよねえ

『ミスト』

ミスト [DVD]

ミスト [DVD]

『ミスト』 監督:フランク・ダラボン 出演:トーマス・ジェーン


霧の向こうにはたして恐怖はあったのだろうか。いや、もちろん怖いんだけども、スーパーマーケットの外(霧の向こう)に対する恐怖は中盤あたりで頭打ちになる気がする。たとえばモンスター侵入時の討伐は、「倒せるんだ」という、恐怖の対象が明確になったある種の希望を生んでいるし。その後、無謀にも薬を調達しにべらんめえって感じで外出するし。外部ではなく、なおも変容し膨張していく恐怖は内部にある。つまり人間と人間の間に恐怖は増幅する。
内部の恐怖から、人間と人間の間に増幅する恐怖から逃れるために、彼らは「勇敢にも」ではなく「恐怖に耐え切れず」霧の中に入るのではないだろうか。現に、外に出ることを選択する者は常にマイノリティである。子供を救いに行った女性。都市部から来たヨソ者の黒人弁護士。最後には、主人公ら無神論者たち。
そして、外は進むか退くか、そこに迷いはなくなる。突き進むか、引き返すか、薬を取ってくるか、モンスターから逃げるか、車に乗るか、自決するか、霧の中は常に「行動」のみが先行し、「選択」は見えない。外に出ること、霧の中を進むことは、すなわちある行動を決定付けされるということだ。行動パターンを入力して、戦闘に入ったらオートで進行するRPGのように、あの薄いガラス扉を開けることは、「選択」を放棄することを意味している。生贄にされた軍人を思い出してほしい。彼は「選択」を奪われる、すなわち強制的に外にでるのだ。我々は、「選択」を与えられている限り常に恐怖を傍らに置いて世界を生きなければならない。では我々はミスト(霧)に何をみる?
ミスト(霧)とは、「選択されなかったほうの未来」を可視化したものではないか。
あらかじめ未知があって、人類はそれをひとつひとつ埋めて世界は更新拡張するのか。いや、人間の「選択」こそが未知を生むのである。「選択」はなんにせよ、「選択したほうの過去」と「選択しなかったほうの未来」を生み出す。「選択したほうの過去」が世界を世界たると記録し、世界を拡張させる。だが同時に、「選択しなかったほうの未来」が世界に埋めれない場所をつくり出すのである。我々は「選択」がある限り背負わされる、「選択しなかったほうの未来」という空白を永久に抱えていくのだ。そして空白は増え続け、それは積もる塵のように世界を覆う。絶対の空白として。
白ヌキの部分に絵が浮かび上がるトリックアートのように、我々は我々の空白にはじめて神をみる。逆を言えば、「選択したほうの過去」がすべてを埋めることが出来ないからこそ、我々は神をみようとできる。見えないものが突然立ち現れるには、そこに何かがあってはならないのだ。ババアが言うとこの神ではなく、我々が生み出した絶対の空白こそが(固有の神ではなく)概念としての神なのではないか。
そう「選択」による未知に、神をみるのだ。

『ダークナイト』その2


前回レヴュー 2008-08-25 - HELLOGOODBYE


ダークナイト』 監督:クリストファー・ノーラン 出演:クリスチャン・ベール ヒース・レジャー アーロン・エッカート

ここ最近、電車とかでなんとなく考えてたことを書くゼ。

ジョーカーの手下というのは率先してやられにいくような「戦闘員」としてのそれではない。どちらかと言うとジョーカーのアシスタント的役割が多いというか、ショッカーというよりもマジシャンの隣にいる水着の女の子のほうに近い。それはジョーカーが暴力の行使者ではなく混沌の創出者であることを証明している。つまり、これはショウだ。
ひとつ面白いシーンがあって、カーチェイスのシーンでトラックの荷台からジョーカーがロケット弾撃つんだけど、バズーカを部下から渡してもらう場面をいちいちというか、きちんと入れてるんだよな。そりゃ状況からいって当然かもしれないけど、わざわざ渡すって所に、「自分は撃たない」ことの非戦闘員であり演出の裏方であるという自覚が、更には彼らが何に惹かれてジョーカーの元に集まっているかが、ちゃんと見えるんだよ。てか、ヒーロー映画であんまりああゆう段取りを見ない気がする。「もったいぶる」演出としての、部下に持ってこさせるというのはよくあると思うのだけど、あのシーンはむしろそれとは正反対である。バットマンが、気軽に空を飛び、簡単に技を繰り出せるスーパーヒーローの反面として、重たく転び、繰り出す技がむしろ生身であることの「限界点」を示しているように、あの段取りもまた、「現実」の手際を挟むことで、つまりは映画的「もたつき」を持たせることで、ジョーカーが演出するショウの、その舞台である「世界」が何を指しているのか、明確に、観客は理解を越えて、体感させられるのだ。
バットマンがバット・ポッドやコウモリの形をした手裏剣を持つのと対照的に、ジョーカーは、そのフェイス以外に固有性を持たない。武器は使い捨てなのだ。ナイフ派であることの主張もテキトー過ぎる。逆に言えば、執拗なまでにフェイスだけはその固有性を維持しようとしている。ナースの変装まったく意味ないじゃん!「ジョーカーであること」以外なにも持たない。何か固有を持てば、そこから秩序が生まれるから。ナース姿のジョーカーをみたとき、僕らはすでに秩序が引き裂かれていることを知る。
冒頭の、同じフェイスの人間が複数いるということが引き起こす不安感を、後半に至っては、もはやジョーカーひとりで具現してしまえるのだ。

『ハンコック』

『ハンコック』 監督:ピーター・バーグ 出演:ウィル・スミス シャーリーズ・セロン

(ネタバレ)
最近思うのが、ヒーロー映画の続きものって面白れーな、ということ。だってヒーローを続けていくってスゲーややこしいから。ヒーローであることを維持するには、それを「日常化」させていくしかない。苦悩を選んだはずのヒーローたちが、結局はシンボルになることを選び取るっていう。
ダークナイト*1は、前作含めバットマン完成に至る道のりを丁寧に描いたものだと思うけど、何よりバットマンのモチベーションの部分をツッコまれてたような。だからこそ、結局は罪を背負わされて真正バットマンになるラストに意味があるわけで。バットマンは、ヒーロー業を(財力と体力が続く限り)日課としてこなしていけるかもしれないが、精神面でそれはいつまでも「非日常」でしかないことをジョーカーに暴かれ追い詰められるのである。

スパイダーマン3』の感想で、欲張りすぎて散漫て意見が多いのかもしれない。だけどそれは、まったくの逆で、カタルシスを求めなかったからこそ散漫にならなければならなかったのだ。俺はあの「一気に3人の敵を相手にしないといけない」ことを、敵ひとりに対しての実質的(=上映時間)な時間配分が3分の1になったのではなく、主人公の敵を相手にする体感速度が3倍になったとしか思えないのである。『2』での敵ドック・オクに対する心的負荷の3分の1で、『3』の敵たちの相手をすること。スパイダーマンは、ヒーローを続けていくこと=「日常化」のために、そうした「平準化」を行ったのではないのかと。
スパイダーマンはクライマックスを挟んで、やがて許し許される。では「憎しみ」はラストのサンドマンのように映画から無責任に消え去っていったのだろうか。ただスパイダーマンはそれを背負うことをやめただけかもしれない。憎しみにカタがつかないのはそれが日常のレールに乗ったときである。己にどんな深刻な問題が降りかかろうとも、そのどれもが決して「主題」になることはない。「すべてを背負うこと」はイコール「すべてを背負わないこと」であるのでないか。それがヒーローの「日常化」であることを、『3』は示そうとしたのである。
また『ボーン・アルティメイタム』のボーンに至っては、その「平準化」すらも必要ない。すでに日常と非日常が反転しているのだから。日常で息を潜め、非日常で呼吸を取り戻すのである。ラストの行方不明=生存証明って超かっこいい。
『ハンコック』もまた、その地点からスタートしてると言える。というかボーン・シリーズと似ている点が結構多い(過去の記憶が失われているとか)。彼はあらかじめの超人であり、そのスタートこそが彼を悩ませている。ヒーローに広報がつくというアイディアはとても楽しく観れた。これはつまり、ボーンの旅のように、ヒーローであることを「非日常」に振り戻そうとしているのではないか。刑務所での一連はホントにぐっときてしまったんだけど、その先には、またもボーンと同じような運命が待っているのだ。ボーンは最後に「てめーが志願したんじゃねーかよ」という事実を知る、ハンコックは唐突*2に「自分はシンボルにしかなれない」ことを知る。なんせ人間になろうとすると必ず邪魔が入る運命なのだから*3アメリカの「世界を裁く者が必要だ」という考え方の傲慢さに、(自覚して)アメリカ人自ら折り合いをつけたような、月にペイントのラストシーンは普通に素敵だと思いました。

*1:http://d.hatena.ne.jp/hke1120/20080825

*2:評価が低いのってここの唐突さなんじゃないかなあ

*3:非日常化の究極は人間化