『チェンジリング』

チェンジリング』 監督:クリント・イーストウッド 出演:アンジェリーナ・ジョリー ジョン・マルコヴィッチ


チェンジリング』は、母親アンジェリーナにカメラは寄り添わない、寄り添えない、という意味でただならぬ冷徹さを備えた映画である。「ただならぬ」というのは、過去は消失し、現在は一方的で、未来は生まれもしていない、そのことに何も疑問の余地がないからである。たとえばその最たるは、アンジェリーナが見つめるその先を窓ガラスの反射で隠していることだったり。もちろんあの角度だったらカメラはその先の刑事と少年を映せないけど、では彼女は刑事と少年を見ていたかといえば、そうであると言い切れないのが、この映画の持つ力量なのだ。終盤アンジェリーナの息子同様、死んだと思われていた少年が5年後に戻ってくるのだけど、刑事に事件の顛末を語る少年を部屋ごしに覗き見るとき、アンジェリーナは息子の勇士が語られるその一室に向かって何を見たのか、後の場面で「希望」であるとされるあの窓から覗く一室に何を見ていたのだろうか。
あるいは息子との(結果的に)最後の別れとなったシーンは、窓ガラスに向こう(室内)で手を振る息子の姿をカメラが捉えたものである。我々はアンジェリーナがカメラと同じように子供と見つめ合っているのだと想像する。カメラは息子の最期を目撃しているが、ではアンジェリーナはそのとき何を見たのだろうか。カメラはそこに決して立ち入ることはできない。いやカメラは一方で踏みとどまざるを得なかった、と我々は思い知るのである。

窓ガラスが空間を区切り視界だけを明け渡すように、真実は、それが希望であっても、たとえその反対であっても、覗き込むかあるいは差し込んでくるものでしかないということ。窓から差し込んでくる光は、彼女の顔に陰影をつくる。それが我々が彼女について知る唯一のものであるということ。差し込む光(外部)がつくり出す、彼女の表情しかカメラは覗くことはできない、ということ。
真相を隠し通した死刑囚は解放され、真相に触れることを叶わなかった彼女はその場に閉じ込められたかのような場面がある。そう、まるで投獄されたような描写。ただの面会者なのに。また、絞首刑の場面においても、死刑囚が動かなくなるその最後のいっときまでを執拗に撮り続けるカメラは、昆虫のようにハリツヤのある光景をみせてくれるのだが、一方で彼女は内へ内へと潜り込み、カメラから後退していくような印象を受けてしまう。
過去はあとかたもなく、今は彼らをさし照らし、ただ未来を覗き見せる。部屋に差し込む光は彼らの顔をつくり、窓からみえる景色を彼らが触れることはない。何ら確かなものはないと言えば簡単だが、そのことに映画が肉迫していけばいくほど、我々の足場は揺らいでいくのだ。『父親たちの星条旗*1で、はじめてイーストウッドの恐ろしさを知った余りに鈍感な俺は、この映画を前にしては、錯愕するほかないだろう。



追記(09/03/04)

『ミスト』か!「彼らが作中で果たす役割についてはそこで終わり」ではっとする。確かに、「スーパーマーケット→外」のように、可能性に仕切りがないほうが恐ろしいもんな。

はてなブックマーク - 『チェンジリング』(クリント・イーストウッド) - イン殺 - xx

ブクマに短く書いたから、ここで補足しようと思ったけどやっぱ別にねえや。アンジェリーナは『ミスト』のラストすらも踏み越えて行く感じだろうか。アンジェリーナをその場所へ向かわせるために警察やノースコットはただ利用されたんじゃねーかという。警察やノースコットは『ミスト』で言えばモンスターに過ぎなくて、じゃあ霧は?ってなったときに、ショットの端々に、たとえばさりげない風景や日常において、それが平然と在ったことに気付いて、改めてイーストウッドの底知れなさを痛感するのである。

あらかじめ未知があって、人類はそれをひとつひとつ埋めて世界は更新拡張するのか。いや、人間の「選択」こそが未知を生むのである。

『ミスト』レヴューより。 2008-10-18 - HELLOGOODBYE

*1:父親たちの星条旗』で俺は、「死にゆく者たちを、死にゆく者が撮ったようなヤバすぎる風景。多分次は戦場のシーンすらないだろうね。」と書いたが、本当にそんな気がしてきたよ。

ネウロ終了前に。

魔人探偵脳噛ネウロ 20 (ジャンプコミックス)

魔人探偵脳噛ネウロ 20 (ジャンプコミックス)

HUNTER X HUNTER26 (ジャンプコミックス)

HUNTER X HUNTER26 (ジャンプコミックス)

ネウロとハンタはただでさえ似てるのに、「玉座には誰もいなかった」ことまで似るというのか。ネウロがあの方向に行ったというのがおそらく当初の予定にはなかったであろうというのが、とても運命を感じる。
玉座」について語る前にシックスについて触れなければならない。五本指編*1はともかくとしてシックス登場編と最終決戦前がすこぶる面白かったんだけど、それはやっぱり(当たり前だけど)シックスについての話だからだ。周りで起きたすべての事件、すべての悲劇、すべての悪意は、シックスに通じるというのは、究極悪を表現する試行としてはとてもナイスな発明だと思った。そんなんようあるじゃんと思う無かれ。その徹底ぶりが発明なんである。徹底とは、悪意は無尽に広がり続け、どんな細部にも染み込んでいくという意志である。たとえば偶然に起きた事件、もしくは「運が無かった」としか言いようがない悲劇ですらも、その徹底ぶりにおいてシックスの悪意の内に包含されているかのように錯覚してしまう。世界の理不尽を、1人の人間から発信されたとして一極集中させるという。*2
だが、肝心なのはシックスはそれを手に入れたまま居続けられるのかということだ。ここで本題になるのだが、キメラアントの王とシックスが図らずもカブってしまったのは、「玉座には誰もいなかった」ということである。及ばない場所として、高みにある場所として、だが突き進めば確かに在る場所としての「玉座」。
玉座」とはRPGのボスに近いが、ボスそのものではないというのが重要である。キメラアントの頂点として、新しい血族の頂点として、彼らがまさに「座らされている」だけなのだ。王座と、そこへ座る者、この2つを束縛するものは何もないということ。その前提が在るがゆえにこの2つの作品において我々は「大いなるスカし」を体験している。
玉座には誰もいなかった。「不在である」という単なる状況であるが、同時にそれは王で在ることを問う。宮殿突入前後の張り詰めた緊張は、その先の衝突の前に回避された(あるいは先送りされた)、しかしそれはギアを落とし尚も継続されている、というのがキメラアント編*3であるのならば、シックス編は、膨張はみるみるうちにしぼみ、それを悟られないようにまったくの自然さで、緊張の向かう先を別の方向に切り替えた、と言えるのではないか。「玉座」に座る者の器は、すなわち作品世界のスケールとなる。膨張し続けること、誇張し続けることは可能であるが、しかしいずれにせよ、我々が「玉座」に辿り着いたとき、その器は真実の大きさしか提示できない。おそらく葛西レベルにまで格落ちしてしまったシックスは今後の展開においてもその威光を取り戻すことはないだろう。あるいは多少取り戻したとして、作者の興味はそこには無いはずである。
それにしても松井はネウロ初期から、軌道修正あるいは方向転換を常に思案してて、読者が見限る半歩手前のタイミングでハンドル切れるっていうのが歴代のジャンプ作品と比べても異質なほどに、巧い作家だったんじゃないだろか。あるいは試行錯誤する度に、自らが想定する射程距離を超えて、予期すらできなかった地を掘り当てしまうかのような、ゴンの成長スピードをみるような驚きというか、「無いなと思ったらでてきた引き出し」感がスゴイぜと思う。ともかく今『ネウロ』はアクロバティックな空中遊泳を終え、飛ぶための燃料しか積まなかったはずの飛行士がはじめて大地を意識したかのように、帰還ではなく旅の終わりとして、着地を果たそうとしている。『ネウロ』はもうすぐ大団円を迎える、おそらく・・。*4

*1:五本指というネーミングの元ネタって、昔ごっつで、YOUが「ヤクザで構成される戦隊モノの名称は?」って振られたときの渾身の返し、「五本指」からかなあ。当時小学生の俺でも唸ったからね。

*2:ダークナイト』のジョーカー案に『ドラゴンボール』のミスター・サタン方式が採用されたかのような、馬鹿馬鹿しさを踏み越えた「言ったもん勝ち」の、まさにジャンプ的な力強さもある。

*3:もちろんミスリードも含めての意味で

*4:またはずしてしまうかもしれんが…。2008-05-22 - HELLOGOODBYE

『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』


ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 監督:デヴィッド・フィンチャー 出演:ブラッド・ピット ケイト・ブランシェット


(ネタバレ)

出会うことそれはまるでスポンジが勢い良く吸い込むようなもので、出会うことそれ自体の瑞々しさと他者の人生のパッションが、主人公の成長のそれぞれのステージで(人生はジェットコースターではないけれども)しっとりと綿密に語られていく、且つ時代を超えそれぞれの出会いが彼の中に密接に折り重なっていくような錯覚をみてしまう、人生があることの「どうしようもなさ」と「幸福」を同時に噛み締める、慎ましくも懐の深い佳作である。「生涯を全うすること」の圧倒的な物量を何ら制限することなく放流させ、且つ淀みなくすべてを飲み込むという、濃厚でいてしなやかな2時間30分。
しかし、たとえば俺なんかをグッと惹きつけるものはこの映画の根底にある不吉さだったりする。視認できないまでに切り刻まれ映画中に散布されたかのような、絶えず在るが人知れずひっそりと呼吸する「不吉さ」。ベンジャミンの生涯は、常に「呪われている」ゆえ成立しているというのが、この物語を特別なものにしているのかもしれない。それは出会いの祝福とセットで訪れる残酷な運命である。いや、人生というものはそうゆうものであって、ベンジャミンの場合に色濃く映し出されているだけだろうか?そう彼はまるで「他人の生命を吸い取って生きている」。
わかりきったことだが整理すると、

  • いつまで生きれるかわからないと言われ続けた車椅子の幼年期と同居老人たちの死。
  • 二足歩行と牧師の死。
  • 戦争と船員の死。
  • 父親の死とその後の放蕩生活。
  • 彼の生きた証=「日記」を読んで訪れるケイト・ブランシェットの死

そもそも時計が逆回りするって不吉である。関係ないけど、潜水艦にエンヤコラ向かうときの夜の海が最高に禍々しくてカッコよかった。機関銃の弾が暗闇にシュンって光って、ドスンと鉛の重い感触に余韻もない、不寛容で無思慮な、鋭く重い暴力を演出してたと思う。最近、対テロの市街戦しか観てない気がしてちょいとデカめの兵器っつたらRPGなんだよなあ。RPGのもっさり感とは対極で新鮮だった。(『ワールド・オブ・ライズ』然り『キングダム』然り、対テロアクションで「RPGがくるぞおおおお!」って叫ぶのお約束ギャグみたいになってるよね。あれは好き。)

『007/慰めの報酬』


007/慰めの報酬』 監督:マーク・フォースター 出演:ダニエル・クレイグ オルガ・キュリレンコ


復讐に復讐を重ねてもキャンバスは黒くならない。ひとつの復讐はその軽薄さに耐えかねて因果を重ねる。その重力に深刻を。その一巡に真実を。だけども一向に映画は塗り重ならない。アクションが表皮を剥いで、真ん中にダニエルを居座らせるだけ。
主人公が出てこないシーンが、スクリーンに主人公が居ないことの意味してしまう場合がある。バットマンが居ないとき、それはジョーカーが活躍するときであるが、この映画ではそれは、ダニエルの不在通知である。映画がひとりだけのイスを用意するとき、世界は法則を生む。反復され退屈であることの美しさよ強さよ。『007/慰めの報酬』は自らの未来をそう予言する。復讐が画面に何かを埋めることはない。魂に決着はなく、そこには浸食輪廻があるだけ。新たな平原には、スーツを血に染め生傷を晒し、「変わらぬ」ダニエルが平然と座っているのだ。
ダニエルが復讐に向かって殺しを重ねるたびに、映画は彼が復讐に対し底抜けに無関心であることを暴いてしまう。復讐はやがて殺戮を目的化してターミネーターを生むのであれば、この映画の陽気さは、一体なんだろう。それを言うのであれば、冒頭のアクションシーンから彼は既にターミネーターである。行動の明瞭さは、動機の強靭さに裏付けされない。映画にダイエルが居たということに、彼の動機は関与できたのか。いやできないのだ。

『アフタースクール』

アフタースクール [DVD]

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『アフタースクール』に対して、警察にチクってめでたしのイイ子ちゃん映画っつう意見があったけど、あれって映画的通俗へのカウンターなんじゃないかなあ。
磨耗でできたそれは、タフとは言わないんだぜ。甘いとされる場所から、素直な気持ちで正しいことをしたい。その行動は、ハデじゃないし、かっこよくもないけど、てか地味だけど、木の根がアスファルトをゆっくりと押し上げるように、ちょっとだけ街の景色を変えるかもしれない。『アフタースクール』は、アウトサイダーが表道を闊歩する映画世界への宣戦布告ではなかったか。世界はこんなもんだろうと思ってるヤツほど、ファーストシーンが反転する結末に動揺したんじゃないだろうか。「世界は悲しくちゃいけない」素直にそう言えばいい。俺はラストシーンにグッときたぜ。

『ノーカントリー』


砂漠から大金だけではない何かを持ち帰ろうとした男は、誰にも見られることなく死んでしまった。彼を救おうとした保安官は、足跡を追うも彼に辿り着くことはなかった。その姿を一度も見ることもなく、結局は徒労に終わった。殺し屋アントン・シガーについても、俺が感じたのは「徒労」であった。


ノーカントリー』 監督:コーエン兄弟 出演:ハビエル・バルデム

彼の理不尽なルールは、「自分ルール」というにはあまりにも「理解されない」という認識が欠けているし、それが「押し付け」であるという自覚がまったくない。また彼の苛立ちは、従ってくれないからという駄々っ子のような一方的さではなく、正しいはずの計算式なのに永久に解が合わないような相容れなさからきている。それはまるで世界から「正常な」答えが返ってこないというような、当然の振る舞いとして彼は「まっとうな」苛立ちをふりまくのだ。
かつての狂人たちは自分が特異であるという自覚を持っていた。常識のもとでは殺されてしまうからこそ、自らのルールに従わざるをえなかった「例外」であると。アントン・シガーにそれを見ることはない。アントン・シガーに「例外」の自覚はない。例えば彼らの「例外」が折れるとき、彼らの行為が「徒労」に終わるとき、それは常に決闘の後であったはずだ。いやそれは「徒労」とは言えないだろう。運命に抗がった先の結末を見つめて死ねるのだから。それは「結果」で、すなわち世界からの回答があったと。だが、アントン・シガーは最後まで、混沌から秩序をひねり出そうともがいて、世界に終わらない問いを続けている。対峙する常識(レスポンス)はなく、目指すべき秩序の地平は一向に見当たらない。それは果たされることのない「徒労」で終わり、いや終わることなく平穏な日常として「疲弊」し続けるのだろうか。
吉良吉影は静かに暮せない。だからこそ吉良吉影は静かに暮したい。かつて吉良吉影のような殺人鬼たちは、動機の上にその存在を位置することができた。つまり意志は選択され、世界と折衝するのは彼らの存在ではなくその意志であった。一方アントン・シガーは、あるいはどこかの殺人鬼が現在に生れ落ちなければならないのであれば、彼らは動機の上に立てないだろう。否応なく世界と私は衝突している。だが意志は見つからない。緩衝しうる確かな秩序を持ち得ない。
物語とは、秩序がフリーズした社会≪日常≫に混沌≪非日常≫を持ち込み、再び秩序を活性化させる行為である。それは、男から砂漠から持ち帰ろうとした大金以外の「何か」であり、保安官が救いたかったその男の命とはまた別の「何か」である。この映画の結末でそれぞれの願いは遂に叶うことはなかったように、物語は不在のままだ。
殺し屋アントン・シガーは、経験値ゼロで混沌の中に秩序を追う模索者であり、赤子のまま自活を強いられた不遇の男である。
最後、アントン・シガーが去っていく町の風景は、僕ら日本人でも非常に馴染みのあるものだ。ここで気の利いた映画が出てこないのが残念だけど、新聞配達人が家の芝生に新聞をほいほい投げ込んでいくような、それを歯磨きしながらパジャマ姿のパパが拾うような、少年がチャリを玄関に乗り投げて勢いよく友達の家のチャイムを押すような、映画『ビッグ』で大人から子供に戻ったトム・ハンクスが(セックスや仕事の楽しさを知ってしまったのに、あのころの気持ちはもう戻らないのに)それでも親友と共に歩いてくねん!のラストシーンのような、それは平穏な日常の光景であったはずだ。その場所に殺し屋が去っていくというのは、かつてであれば、杜王町的不穏さ・恐怖を意味していたのだろう。だがこの映画の徒労感は、まさに町に消えるアントン・シガーの後姿にこそ見たのである。男が大金と出会う冒頭の砂漠と、アントン・シガーが去っていくラストの町の光景は、混沌を持ち込み秩序の中に消えていくアウトラインは、それがいかにも物語をなぞっていたかのように見える。男が取るべきだった結末、平穏な日常に帰ることはアントン・シガーに「代行」され、本人は死んでしまった。そう考えるとすれば、アントン・シガーもまた選択されるべき意志を、冒頭に男に「代行」させたのではないだろうか。つまり本当は、何も持ち込めなかったし帰るべき秩序はなかった、ということ。彼らは疲弊しながらそれでも不在のはずの物語をなぞるのだ。

『地球が静止する日』


地球が静止する日』 監督:スコット・デリクソン 出演:キアヌ・リーブス

(ネタバレ)

ハムナプトラ3で思ったけど、ジェット・リーのドラゴン化やガイコツの両軍が合戦するスペクタクルなシーンよりも、ジェット・リーが周りの雪をツンツンの氷に変える(ホワイトアルバム!)だけの割と慎ましい超能力や、祭り用の花火を使った割と殺傷力の低そーな馬車上でのアクションシーンのほうがグッとくるんだよなあ。
地球が静止する日』でも、(予告編でもおなじみの)イナゴの襲来でダンプカーやスタジアムが消失していくシーンや、巨大宇宙人のシーンなどの映画の見せ場であろうシーンのほとんどに興奮できなくて、反対に地味めな、キアヌ・リーブスが尋問官を痙攣させて逆尋問する(尋問官の豪快なのけぞりとキアヌの無表情のマッチングが最高に楽しい)シーンや、同じくキアヌが念力(?)で自動車を横移動させて警官を押しつぶす(キアヌ無表情→車が静かに移動→警官抵抗する間も無くグェが最高に楽しい)シーンのほうが俄然に眠気吹っ飛んだよ。
キアヌの無表情なキャラクターが大きく貢献していると思うけど、どこか間延びしてるような弛緩した空間に、突如異様さがノーモーションで食い込んでくる「慎ましく違和を放つ」シーンのソリッドさがとても良いと思った。良いと思えるシーンはものすごく少なったけどさ。
あでもイナゴ襲来→物体消失での、「ガラスに細かいひび割れが広がっていく」という静かな予兆は、世界の終わりを甘く穏やかに夢想させるクールな演出だと思います。