ネウロ終了前に。

魔人探偵脳噛ネウロ 20 (ジャンプコミックス)

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HUNTER X HUNTER26 (ジャンプコミックス)

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ネウロとハンタはただでさえ似てるのに、「玉座には誰もいなかった」ことまで似るというのか。ネウロがあの方向に行ったというのがおそらく当初の予定にはなかったであろうというのが、とても運命を感じる。
玉座」について語る前にシックスについて触れなければならない。五本指編*1はともかくとしてシックス登場編と最終決戦前がすこぶる面白かったんだけど、それはやっぱり(当たり前だけど)シックスについての話だからだ。周りで起きたすべての事件、すべての悲劇、すべての悪意は、シックスに通じるというのは、究極悪を表現する試行としてはとてもナイスな発明だと思った。そんなんようあるじゃんと思う無かれ。その徹底ぶりが発明なんである。徹底とは、悪意は無尽に広がり続け、どんな細部にも染み込んでいくという意志である。たとえば偶然に起きた事件、もしくは「運が無かった」としか言いようがない悲劇ですらも、その徹底ぶりにおいてシックスの悪意の内に包含されているかのように錯覚してしまう。世界の理不尽を、1人の人間から発信されたとして一極集中させるという。*2
だが、肝心なのはシックスはそれを手に入れたまま居続けられるのかということだ。ここで本題になるのだが、キメラアントの王とシックスが図らずもカブってしまったのは、「玉座には誰もいなかった」ということである。及ばない場所として、高みにある場所として、だが突き進めば確かに在る場所としての「玉座」。
玉座」とはRPGのボスに近いが、ボスそのものではないというのが重要である。キメラアントの頂点として、新しい血族の頂点として、彼らがまさに「座らされている」だけなのだ。王座と、そこへ座る者、この2つを束縛するものは何もないということ。その前提が在るがゆえにこの2つの作品において我々は「大いなるスカし」を体験している。
玉座には誰もいなかった。「不在である」という単なる状況であるが、同時にそれは王で在ることを問う。宮殿突入前後の張り詰めた緊張は、その先の衝突の前に回避された(あるいは先送りされた)、しかしそれはギアを落とし尚も継続されている、というのがキメラアント編*3であるのならば、シックス編は、膨張はみるみるうちにしぼみ、それを悟られないようにまったくの自然さで、緊張の向かう先を別の方向に切り替えた、と言えるのではないか。「玉座」に座る者の器は、すなわち作品世界のスケールとなる。膨張し続けること、誇張し続けることは可能であるが、しかしいずれにせよ、我々が「玉座」に辿り着いたとき、その器は真実の大きさしか提示できない。おそらく葛西レベルにまで格落ちしてしまったシックスは今後の展開においてもその威光を取り戻すことはないだろう。あるいは多少取り戻したとして、作者の興味はそこには無いはずである。
それにしても松井はネウロ初期から、軌道修正あるいは方向転換を常に思案してて、読者が見限る半歩手前のタイミングでハンドル切れるっていうのが歴代のジャンプ作品と比べても異質なほどに、巧い作家だったんじゃないだろか。あるいは試行錯誤する度に、自らが想定する射程距離を超えて、予期すらできなかった地を掘り当てしまうかのような、ゴンの成長スピードをみるような驚きというか、「無いなと思ったらでてきた引き出し」感がスゴイぜと思う。ともかく今『ネウロ』はアクロバティックな空中遊泳を終え、飛ぶための燃料しか積まなかったはずの飛行士がはじめて大地を意識したかのように、帰還ではなく旅の終わりとして、着地を果たそうとしている。『ネウロ』はもうすぐ大団円を迎える、おそらく・・。*4

*1:五本指というネーミングの元ネタって、昔ごっつで、YOUが「ヤクザで構成される戦隊モノの名称は?」って振られたときの渾身の返し、「五本指」からかなあ。当時小学生の俺でも唸ったからね。

*2:ダークナイト』のジョーカー案に『ドラゴンボール』のミスター・サタン方式が採用されたかのような、馬鹿馬鹿しさを踏み越えた「言ったもん勝ち」の、まさにジャンプ的な力強さもある。

*3:もちろんミスリードも含めての意味で

*4:またはずしてしまうかもしれんが…。2008-05-22 - HELLOGOODBYE